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ネガティブなロシア語なら

3日目の朝、ラトミラさんが洗濯を干している時、無職組の長男のアルとアスカルとご飯を食べることになった。働いているグルナラたちはとっくに出勤している。例の甘い紅茶をすすり、コッペパンにバターを塗っていると、ふたりのおじさんは私がほとんどロシア語が理解できないというのに、構わず話しかけてきた。

ところが、驚いたことに2日間のグルナラたちとのガールズトークで鍛えられた私は、アルの「俺がアル中だからって、サブルが家中の酒を隠してしまった」という憤慨も、アスカルの「電話番の小屋を建てたいが金がない」という嘆きも、ざっくりと聞き取れたのだ。

というのも、昨夜、女子会でノートに書きとめた単語は、「酒」「隠す」「ひどい」「収入」「低い」である。そのフレーズ、わかる、わかるよ! もちろんジェスチャーが頼りではあるが、私が目をキラキラさせて相槌を打つので、おじさんたちは喜んだ

その日の夜、私は昨日のブランデーのお礼にキオスクで買ったビールを家族に見つからないように、紙袋に入れてグルナラたちの部屋に持ち込んだ。すると、グルがベッドの下をのぞき込み、何やら箱を取り出した。開けてみると、タバコとライターが入っている

「もうさー、サブルおじさん、家の中で吸わせてくれないの!」

「やんなっちゃう。自分は吸うくせに何で女が吸うとダメなの~」

慣れた様子で、ふたりはスパスパと吸い出した。と、その時、こちらの部屋に近づいてくる足音が! ゴロンと横になっていたふたりは、「やばい! サブルが帰ってきたかも!」と、あわててタバコを消し窓を開けた。冬のキルギスの夜は氷点下であった。一気に部屋に寒い空気が流れ込んで、私は「へっくしょん!」と、くしゃみをしたが、それには構わずグルとナラはクッションや洋服でパタパタとタバコの煙を追い出した

ノックの音と同時に窓を閉め、ビール瓶を隠し何事もなかったような顔をして、ナラが部屋のドアを開けたが、そこに立っていたのはアルの愛人のラトミラさんとアルの最初の妻の娘のオルガであった。グルとナラたちは「なんだあ~!」と笑ってひっくり返った。ラトミラさんたちは、毎晩、楽しそうな声がふたりの部屋から聞こえるから、女子会に混ぜてほしかったのだという。

その夜はアルが無職なので夫婦になれないというラトミラさんの嘆きや、オルガの元ダンナがどんなに甲斐性がないかという話で盛り上がった。皆が早口でしかも時々、キルギス語も交えて話すので、私には10分の1もわからなかった

しかし、「最低~!」「男ってダメだよね~」「どこにいい男がいるの?」「もう別れようかな」「でも好き!」「いい加減なの!」という、この3日間、耳にタコができるくらい彼女たちの口から繰り返されたワードがでるたびに、「ウージャス!(それはひどい!)」、「ニチボー・セベー(なんてこった!)」と相槌程度に私もガールズトークに参加することができた

朝も夜も誰かの愚痴に付き合っているうち、この家の人たちはだんだん明るい顔になっていった。サブル一家にしてみれば、後腐れもない旅人に煮詰まった不満をただただ吐き出すことで、一種のカンフル剤になっていたのかもしれない。

女子会で鍛えられたおかげ? おじさんのロシア語の愚痴も分かる!
女子会で鍛えられたおかげ? おじさんのロシア語の愚痴も分かる!

帰って来なくてありがとう

「もう少しいたら」と家族に引き留められてウズベキスタンへの移動を数日、伸ばしていたが、ついにビザが切れそうになって、いよいよお別れする朝がやってきた。ラトミラさんが昼食のパンを持たせてくれ、ギューッと抱きしめてくれた。

無職なのにアルとアスカルからもオレンジふたりのグルナラも私が初日に適当に好きだと言った郷ひろみ似の切り抜きと、痩せクリームを餞別にくれた(旅の間、腹に塗り続けるも全く痩せなかった)。そして、「今度は私たちの故郷に連れていくから夏もまた来てよ」と涙ぐんだ。

ずっと帰って来なかったサブルが戻って来て、バスターミナルまで送っていくという。そして「ごめん~。俺がいないから英語が通じなくて苦労しただろう?」と形ばかり謝るのだが、いいの、帰ってこなくてありがとう。おかげでロシア語が上達して、毎晩、心おきなく飲んだくれることができたからだ。

当時の日記を読み返せば、キルギスの観光地もひとりで昼間に行っているのだが、ほとんど思い出せない。20年経った今、頭に浮かんでくるのはこの家の人々の顔だけだ。有名人でもなく特別にカッコよくもない。皆が皆、人生がうまくいっておらず不満ばかり。それでも折り合いをつけて生きていた。そんな彼らとの暮らしは妙に居心地がよかった。あれから一度もキルギスを訪ねていない。彼らはそれぞれ好きな人と幸せに暮らしているのだろうか

文/白石あづさ

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