出家して高野山へ、後に追放 秀信は出家したものの高野山からは迫害をうけて追放となり、山麓の村で慶長10(1605)年に亡くなったといわれます。享年26。 織田信長の孫ということがずっとついて回った人生だったでしょう。七光…
画像ギャラリー『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
秀吉の天下取りの布石となった重要な会議
歴史にはターニングポイントというものがありますが、清洲城で行われた清洲会議は、本能寺の変で横死した信長の後継者と遺領の分配を決める会議であるとともに、秀吉の天下取りの布石となった重要な会議です。
清洲城は尾張の守護大名だった斯波(しば)義重が応永12(1405)年に築城したと伝えられています。その斯波氏に仕え、尾張の守護代になったのが織田氏です。ちょうど尾張の国の中央にあり、中山道、伊勢街道にも通じた尾張の首府でした。
信長も清洲城を本拠とし、桶狭間の戦いもこの清洲城から出陣しています。有名な幸若舞の『敦盛』を舞い、寅の刻といいますから朝4時くらいにほんの数騎で、熱田神宮に向かい、そこで部隊が集結し、戦勝祈願したとあります。数騎ずつ出ることで今川の目を欺いたというわけです。
家康が信長と結んだ『清州同盟』
その桶狭間の戦いの2年後、永禄4(1562)年に清洲会議とは別の重要な会議が行われています。家康、当時は松平元康といいましたが、彼が信長のもとを訪ねて結んだ『清洲同盟』です。これは桶狭間の戦いで今川からの自立を図り、三河統一を目論む家康が、今川対策に専念したいという思惑と、美濃の斎藤氏攻めで三河方面の負担をなくしたい信長の思惑が一致してできた同盟です。
当初は対等な関係でありましたが、信長の勢力拡大とともに、従属関係になっていきます。桶狭間の頃は今川が圧倒的に強く、信長も家康もほぼ同じくらいの力だったことは、戦国時代を理解するのに頭に入れておきたい事柄です。
信長の長男・信忠が存命なら開かれなかった会議
それから20年後の天正10(1582)年6月2日。京都本能寺で信長が明智光秀に討たれ、その25日後に行われたのが清洲会議です。信長の後継者を誰にするか……、その会議に集まった武将を紹介しましょう。
織田家臣団の柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の4人です。本来ならば武田討伐で功績があり、関東方面総司令官として厩橋(現在の前橋)に本拠を置いた滝川一益が出席すべきですが、本能寺の変に乗じた北条氏直が上野(現在の群馬県)に侵攻し、世に言う神流川の戦いで大敗し、旧領の伊勢長島に敗走中で、会議に出ることはできませんでした。
信長の長男・信忠が存命なら会議は開かれなかったでしょうが、彼も本能寺の変当日、二条城で自刃していました。この会議で柴田勝家は、信長の三男信孝を推します。次男には信雄がおり、信雄自身は我こそはと思ったようですが、家老たちの評価が低く推挙されませんでした。そして秀吉は、ドタン場で亡くなった長男信忠の嫡男三法師を立てる挙に出ました。
信長の孫・三法師を抱いて「待った」をかけた秀吉
勝家が信孝に決めようと「よーござんすね」と言った時に三法師を抱いた秀吉が「ちょっと待った! こちらの三法師さまこそ信長公のご嫡系で、お世継ぎにふさわしいと存じます」と言ったと伝わっています。たしかに三法師は信長の長男、信忠の嫡男ですから、筋は通っています。
その結果、勝家の意見は退けられ、3対1で三法師が後継者に決まります。同時に秀吉は丹波、河内、山城と、おいしい領地を独占、柴田勝家は北近江と長浜城を与えられただけで、2人の立場はこの清洲会議で完全に逆転してしまいます。三法師に決まったとはいえまだ3歳ですから、後見人として秀吉が政務を取り仕切るのは、誰の目にも明らかです。
面白くないのが柴田勝家です。滝川一益と織田信孝と組んで賤ヶ岳の戦いで秀吉に挑みますが、敗れたことはご存知のとおり。賤ヶ岳で勝家に味方した信孝は、秀吉側についた兄の信雄に岐阜城を攻められ自害しています。こうして秀吉の天下が開けていくのです。
東軍につくはずだったが…
さて三法師はどうなったかと言いますと、9歳で元服し秀信を名乗り、小田原征伐にも参加しています。その後秀吉から美濃国岐阜13万石を与えられています。文禄の役で朝鮮に渡り帰国した時には中納言となり、岐阜中納言と呼ばれます。この頃までは順風満帆ですが、秀吉が亡くなり関ヶ原の合戦が起こったことで、彼の人生は暗転します。
石田三成から三河、尾張をもらう約束をして西軍についたのです。実際は家康の会津征伐に付き従おうとしたのですが、軍装に手間取り、遅れたところへ三成からおいしい話がきたため、西軍に与したというのが真相のようです。
わずか1日で落城、「感状」を書き始め…
関ヶ原の合戦は、態度を決めかねていた武将がとにかく多いのです。ただ秀信の身になって考えてみますと、おじいさんがあまりにも偉大だったことで、周りから特別扱いされてきたため、ここらで自分の手で何か大きな決断がしたかったのかもしれませんね。このとき秀信21歳でした。
結果は、関ヶ原の前哨戦として岐阜城に籠城して東軍を迎え討ちましたが、福島正則、池田輝政という2人の猛将の前に、わずか1日で落城します。開城を決意した彼は「感状」を書き始めます。感状というのは兵士への表彰のことで、どのくらい武勲があったかを証明する書状です。
兵士が次の就職先を見つける際にこれがあるとないとでは、まるで違うわけです。彼は、若い割にこういう細やかな心遣いがあったのです。周りはさすが信長の孫だと思ったことでしょう。そんな彼を戦国一の激情家・福島正則が助名嘆願し、高野山への出家で許されました。しかし、信長が生前、高野山を敵対視した因縁で、当初入山が許されなかったといいます。
出家して高野山へ、後に追放
秀信は出家したものの高野山からは迫害をうけて追放となり、山麓の村で慶長10(1605)年に亡くなったといわれます。享年26。
織田信長の孫ということがずっとついて回った人生だったでしょう。七光りのようにいわれ、生涯ただ一度関ヶ原の合戦で勝負に出て裏目に出た。結果は不幸だったけど、彼自身そうは思わなかった。むしろ爽やかな心境だったのではないか、私はそう思います。
【清洲城】
織田信長が桶狭間の合戦の時、今川軍に気づかれぬよう、数騎、また数騎と出撃したことでも知られる清洲城。福島正則なども城主になったが家康により遷府の命が出され、名古屋城の完成とともに廃城になる。現在あるのは模擬天守。
住所:愛知県清須市朝日城屋敷1−1
電話:052-409-7330
清洲城天守閣入城料:大人300円、小人(小中学生)150円※令和6年4月1日から大人400円、小人(小中学生)200円
開館時間:9~16時30分
休館日:月曜日
【織田秀信】
おだ・ひでのぶ。1580~1605年。織田信長の長男信忠の嫡男。幼名は三法師。清洲会議の際、わずか3歳。後に岐阜城主になり関ヶ原の戦いでは西軍につく。東軍の攻撃を受け落城。出家し高野山に入るも、5年後に山から追放され死去。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」