初代シティは背の高いデザインで一世を風靡しましたが、ヒットしたのはそれだけが要因ではありません。ホンダのチャレンジング精神が盛り込まれていました!!
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第42回目に取り上げるのは1981年に登場したホンダの初代シティだ。
大きくなったシビックの後釜
1972年にデビューしてホンダのベーシックコンパクトカーとして認知されていた初代シビックは、1979年に2代目にフルモデルチェンジして上級移行。ボディサイズが若干大きくなると同時に、排気量は1.5Lクラスがメインとなった。ホンダは1980年初頭は軽自動車から手を引いていたこともあり、シビックの後釜となる低価格のコンパクトカーは販売会社からの要求も強かった。
その大きくなったシビックに代わるモデルとして開発されたのが初代シティで、1981年11月にデビューした。
トールボーイというコンセプトで登場
初代シティのボディサイズは全長3380×全幅1570×全高1470mm。一方シビックは全長3870×全幅1580×全高1350mmだから、シティはシビックに比べて全幅はほぼ同で、490㎜短く、背は120mm高い。120mmの全高アップ、すなわちトールボーイというコンセプトで登場したのだ。初代シティがデビューした1981年当時の日本車のラインナップを見ても、初代シティの1470mmという背の高さは異彩を放っていた。ショート&ナローで背が高いというデフォルメされたようなフォルムがリアル版の『チョロQ』と呼ばれていたゆえんだ。
ある種のタブー領域
ボディサイズに制約のあるコンパクトカーで、室内の広さ、余裕を出そうとすれば背を高くする、という発想は今も昔も変わらない。しかし、当時は背の高いクルマではクロカンタイプ、1BOXカーはあったが、コンパクトカーでは皆無。
なぜか? それは背が高いと転倒の危険性が高まるからで、背は高くしたいが安直に踏み込めないある種のタブー領域であったとも言える。サスペンションを含めまだ車体の安定性を確保する技術が確立されていなかった。
今の基準では背が低いクルマ!?
1470mmのトールボーイで話題となった初代シティ。今ではベーシックコンパクトカーと呼ばれるスズキスイフトでも全高は1500mm前後だし、ホンダフィットは1540~1570mm、あのトヨタヤリスでさえ全高は1495~1510mm。誰もスイフト、フィット、ヤリスを見てトールボーイとは感じない。今の基準なら初代シティは背の低いクルマ、ということになるのが時の流れで、現代のベーシックコンパクトより背が低い初代シティがトールボーイを大々的にアピールしていたのが懐かしい。
今軽自動車ではホンダN-BOXを筆頭にスーパーハイトワゴン軽自動車が大人気だが、そのスーパーハイトワゴン軽自動車の全高は1800mm前後だし、ハイトワゴンと分類され人気のトヨタルーミー、スズキソリオは全高1740㎜前後。そう、トレッドが狭い軽自動車、コンパクトカーでも全高をいかようにも高くできるところに技術の進化を感じる。
裏を返せば、1981年にほかのメーカーに先駆けて、背の高いモデルにチャレンジしたというのは、いかにも当時のホンダらしいところでもある。
ひときわ個性を放っていた
初代シティがデビューした1981年といえば、初代トヨタソアラがデビューした年として記憶している人も多いだろう。初代ソアラのデビューは衝撃的で、日本の若者の憧れのクルマに一気に昇華。しかしその一方で、初代ダイハツシャレードが先鞭をつけたコンパクトハッチバックも大人気。キビキビ走れる気持ちよさは最低条件ながら、クーペに比べて広くて使い勝手のいい室内、積載能力の高いラゲッジによる実用性など、一台で何でもこなせるユーティリティ性が若者だけでなくファミリーユースとして人気だった要因だ。
初代シティは、ホンダのクルマ作りのコンセプトとして今も受け継がれている『人間のための空間を最大に、メカニズムは最小限に』というMM(マンマキシマム・メカミニマム)思想に基づいていたため、クラストップのユーティリティ性を誇った。
当時ではトヨタスターレット、ダイハツシャレード、三菱ミラージュ、初代シティの翌年デビューの日産マーチといった各メーカーの主力コンパクトと比べてもひときわ個性を放っていたし、後述するが独自の進化を遂げていった。
モトコンポを同時に発表・発売
ホンダらしいと言えば、初代シティのラゲッジに積載できるというコンセプトで開発された50ccの原付のモトコンポ。コンパクトかつボクシーなデザインは今見ても斬新。ハンドル、シート、ステップは折りたたんでボクシーなボディに収納できる。さらに横倒しして積載することも可能だったという優れもの。
初代シティと同時に発表・発売され、当時の新車価格は8万円。話題性抜群で、自動車雑誌の『ベストカー』の初代シティの新車インプレッションでは、徳大寺有恒巨匠もモトコンポに試乗してご満悦だった。その時の写真を見返すと、当時は原付乗車時にヘルメット装着が義務付けられていなかったこともありノーヘル。これも時代を感じさせてくれた。
ホンダ関係者によると、当時初代シティとセットで購入する人はそれほど多くなかったが、トランクに搭載できる原付として、根強い人気だったという。
ステップコンポは重宝した!!
少々話はそれるが、ホンダの二輪車と四輪車のコラボといえば、2代目ステップワゴンに折りたたみ式電動アシスト自転車の『ステップコンポ』も有名。筆者はステップワゴンは購入しなかったがステップコンポを単体で購入し、かなり重宝した。そのほか新しいところでは2023年に開催されたジャパンモビリティショーでは、初代シティ&モトコンポの再来とも思える、『サステナCコンセプト』と小型電動バイク『ポケットコンセプト』のコラボも注目されていた。電動化で初代シティとモトコンポが復活する姿は2025年中には拝むことができるかも。
何に乗っても楽しかったあの頃
初代シティがデビュー時に搭載していたのは、新開発の1.2L、直4SOHCで最高出力は67ps、最大トルクは10.0kgmといたって平凡なエンジンだが、車重が665kgと今の軽自動車よりも軽かったこともあり、走りはキビキビ気持ちよかった。筆者は初代シティがデビューした時には中学3年生。当然運転できるはずもなく、派手なクルマではなかったので興味の対象外だったが、大学に入って免許取得後に自動車部在籍の友人が中古で買った個体に乗せてもらった。今ではクルマに乗ると職業柄、ボディ剛性が云々、エンジンの回転フィールが云々、足回りが云々と偉そうにアラ探しをしてしまうが、当時は何に乗っても新鮮で、いいところしか見えなかった。まぁ、これでは仕事にならないが、今後老後に向けて、当時のフレッシュな気持ちを取り戻すことが、残りのカーライフを楽しむ秘訣なのかも、と初代シティに乗った時を思い出して考えたりする。
TV CMが子どもにも人気
前述のとおり、筆者は初代シティがデビューした時は中学3年生。免許を持っていなかった同世代の人間にとっても印象的だったのがTV CM。イギリスのバンド、マッドマックスの『シティ・イン・シティ』(1981年リリース)のCMソング、「ホンダ、ホンダ、ホンダ、ホンダ」の連呼、真顔でやっているぎこちないムカデダンスなどなどインパクト抜群。この原稿を書くにあたりYou Tubeで検索して当時の映像を見たが、笑えた。ホンダはカッコつけたCMが多かったから異色だった。でも、訴求力は抜群で、シティのCMによりクルマのことを知らない当時の子どもたちにも初代シティを認知させた。
商用モデルも設定
実用性を重視した初代シティ。それは価格にも現われていた。車両価格は、若者でも入手可能な58.8万円(商用のシティプロ )~78万円(シティ R 5)に設定されていた(東京価格)。当時の大卒初任給は12万円程度だったので、今の貨幣価値から考えると150万円程度といったところか。この買いやすい価格も人気の要因だ。鉄チンホイールでシンプルな商用モデル、シティプロは乗用モデルが5MTだったのに対し4MTとなっていたが、商用モデルを設定しているところが1880年代らしいところでもある。
この商用モデルを一般ユーザーが買うことはほとんどなかったが、聞いたところによると営業車として人気が高く、東名高速を爆走するシティプロが多数目撃されていたようだ。商用車として走りが気持ちよかったんだろう。
ターボはハイパワーと燃費を両立
1970年代後半から1980年代にかけて日本車は高性能化が顕著だった。その象徴のひとつがターボエンジン。1979年に日産がセドリック/グロリアで日本車初のターボエンジンを登場させ、三菱もそれに続いたが、ホンダは静観。ホンダの言い分は、「ちょっとパワーアップさせるだけならターボである必要はない」というもの。
静観していたホンダだったが、1982年に初のターボエンジンを初代シティに搭載。ホンダがターボエンジンを搭載した裏には、当時極悪と言われていたターボの燃費を改善し、ハイパワーと燃費性能をホンダが納得できるレベルで両立できたことにある。
初のターボエンジンは100ps/15.0kgmのスペックも素晴らしいが、当時の燃費基準である10モード燃料消費率は18.6km/L、60km/h時燃料消費率は27.0km/L(ともに運輸省届出値)で、これはターボエンジンとしてはナンバーワンの燃費性能を誇った。
その一方で、ある回転域から一気にターボパワーが盛り上がる、ユーザーにとってわかりやすい演出をしていたことも人気となった重要なポイントだろう。
ブリスターフェンダーのターボII登場
シティターボはユーザーからウケて人気となったが、ホンダは開発手を緩めず、1983年にはターボエンジンにインタークーラーを装着。『ブルドッグ』と呼ばれているシティターボIIを登場させた。ターボIIはエンジンのスペックアップ(最高出力は10ps、最大トルクは1.3kgmアップ)と同時に、大きく膨らんだボンネット、ホンダがダイナミックフェンダーと命名した前後のブリスターフェンダーなどが装着されひと目で違うとわかるデザインで差別化された。ワイドボディによりトレッドは前が30mm、後ろが20mm拡大し、走行時のスタビリティも進化させた。
エンジン型式はターボと同じERターボのままだが、ターボII専用に燃焼室形状を変更してアンチノック性能を向上。クラスに初となるインタークーラーの装備で、当時世界最高クラスとなる過給圧0.85kg/cm2を達成していたのも特筆ポイント。
さらにエンジン回転数が4000rpm以下でスロットルを全開にした場合、過給圧を10秒間約10%アップさせる『スクランブルブーストを採用するなど機能てんこ盛り!! ジャジャ馬的と言われていたが、わかりやすいのがいい。
ワンメイクレースも開催
ホンダはターボIIの登場後にワンメイクレースも開催。鈴鹿サーキットでの『ブルドッグレース』は多くの若者が参戦。マシンはシティターボIIをベースに、由良拓也氏率いるムーンクラフトがデザインし、無限が製作したワイドボディキットを装着。ド迫力のボディで見た目も精悍。
レースそのものもヒートアップしおおいに盛り上がりを見せていたが、何せジャジャ馬的なマシンゆえ、アクシデントも多発。「あのマシン、転ぶんだよな」とはインディ500などに参戦経験のあるレーシングドライバーの松田秀士氏のコメントだが、本当にレース中に転倒したらしい。
このブルドッグレースは、ステップアップを目指す若手ドライバーの登竜門にもなっていて、その後日本のトップドライバーになった人も少なくない。
オープンのカブリオレも人気
初代シティではもう一台重要なモデルがある。ホンダ車としてS800以来の14年ぶりとなるオープンモデルとなったカブリオレだ。ターボIIと同じワイドボディで、ソフトトップは手動で、オープン時にピラーが残るタイプ。オープンカーといえば、2シータースポーツカーが相場のなか、4シーターオープンとして根強い人気があった。特別色を含め12色をラインナップしていたのもナイス。
オープン化するにあたりソフトトップを手掛けたのは、イタリアのピニンファリーナで、このモデルを機にホンダとピニンファリーナが関係を深めたという点でも重要なモデルだった。
このシティカブリオレ、仲間内では自動車評論家の小沢コージ氏が中古で購入。さすがセンスがいい。ただ、すでに売却して小沢氏の手元にはないようだ。
ホンダのチャレンジ精神の塊
初代シティはトールボーイとしてその利便性がユーザーにウケたわけだが、そもそも当時の技術力で背の高いコンパクトを市販したことがチャレンジングなのだ。加えて性能と燃費を両立したターボエンジン、NAでも燃費を追求、世界初となる二輪と四輪の同時開発、4シーターオープンのカブリオレの設定、ワンメイクレースの開催など、ホンダがホンダらしさをいかんなく発揮したモデルだったと言えるだろう。
「いいものを作れば売れる」という創業者の本田宗一郎氏の言葉をそのまま具現化したモデルが初代シティだったと言っていいだろう。
【初代ホンダシティターボII主要諸元】
全長3420×全幅1625×全高1470mm
ホイールベース:2220mm
車両重量:735kg
エンジン:1231cc、直4SOHCターボ
最高出力:110ps/5500rpm
最大トルク:16.3kgm/3000rpm
価格:123万8000円(5MT)
【豆知識】
サステナCコンセプトとポケットコンセプトはホンダがジャパンモビリティショー2023でセットで公開した次世代車を示唆するコンセプトカー。四輪車と二輪車のセットということで初代シティ&モトコンポの再来と騒がれた。ともにモーターを搭載する電動車で、サステナCは環境を考えて使用済みのアクリル素材をボディ外板に使用しているのがポイントだ。市販を前提としたモデルで、早ければ2025年中に市販される可能性も充分にある。電動化を推進するホンダの注目のモデルだ。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/HONDA、ベストカー