浅田次郎の名エッセイ

「勇気凜凜ルリの色」セレクト(15)「近親憎悪について」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第15回は、浅田さんが初めて受賞した文学賞の授賞式二次会で起こった抱腹絶倒の悲劇の顛末を。

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「近親憎悪について」

何から何まで好対照の兄と弟

私には3つ年上の兄がいる。

東京の旧家の風習に従い、兄と私とは幼いころたいへん差別的に育てられたと記憶する。一家の総領として生れた兄はほとんど祖父母の手で養育され、母は乳を与える時間の他には抱くことすら許されなかったそうである。

「ソウリョウ」という言葉を、幼い私は畏敬すべき兄の別名だと思っていた。

それにひきかえ次男坊の私は、母の愛情を一身享けることができた。わかりやすく言えば、家は父と祖父母と兄とで構成される支配者階級と、母を頂点として私と使用人たちで構成される無産階級とででき上がっていた。

ひとつ屋根の下で、この2つのカーストは明らかに別々の生活をしていたのであった。

古写真などを見ると、幼い日の兄はポマードべっとりの七三に分け、ブレザーとネクタイでおすまししているのであるが、私はなぜか林家三平ふうのパーマをかけており、ルパシカなんぞを着せられている。

ほどなく朝鮮動乱の特需景気が終わると同時にわが家は没落し、使用人たちは去り、家屋敷は人手に渡って私たち兄弟はタダの少年になってしまうのであるが、私と兄との間には幼時に培(つちか)われた関係がその後も長く残った。

私は43歳となった今も、兄の前ではひどく緊張してしまい、常に敬語を用い、外でメシを食うにしても兄が先に箸をつけなければ物を口に入れられない。

もっとも、成長の過程においても、私はずっと兄にコンプレックスを抱き続けてきた。家は没落したのだけれど、兄は総領の矜(ほこ)りを決して捨てることなく、謹厳実直、品行方正、あたかもストイックな儒者のごとき人生を送ってきた。

ゆえにその間、放蕩の限りを尽くしてきた私は、なおさら頭が上がらんのである。

たとえて言うなら、旗本の跡とりに生れた兄が昌平黌(しょうへいこう)に通って学問を修め、お玉ヶ池の千葉道場で撃剣の稽古に励んでいたころ、部屋住みの弟は派手な身なりで吉原に通ったり、大川端で辻斬りを働いたりしていたのであった。

で、ともに明治の御一新を体験したのち、兄はみごとお家を再興し、弟は紆余曲折を経てなんとか市井の物書きになった、というわけである。

こうした経緯もあって、兄と私とはもともと兄弟でこうもちがうかというぐらい異質であった。顔形、体型、趣味、性格、どれをとっても相似点など何ひとつとしてなかった。

要するに幼いころのポマード・ネクタイの兄と、パーマ・ルパシカの弟は、ほとんどそのままパラレルに成長して行ったのである。

たとえば同じ20歳の肖像を見ると、早稲田の勤労学生であった兄は牛乳ビンの底のようなメガネをかけて小むずかしい顔をしており、自衛隊員であった私の顔はひたすら暴力的でインテリジェンスのかけらすらない。

なぜハゲた、と兄は私を責めた

さらに数年後、兄は大学を出て税務事務所に勤め、私は度胸千両の業界人になってしまったので、このへだたりはいっそう顕著になった。

私がたまに兄の事務所に遊びに行くと、兄の同僚たちはみな殴りこみかと思って怖れおののき、弟だと名乗っても誰も信じてはくれないのであった。

同様の理由から、兄が私の事務所に遊びにくると、私の同僚たちはみな家宅捜索かと思って怖れおののき、兄だと名乗っても誰も信じようとはしないのであった。

ために当時、私たち兄弟はたがいの事務所を訪れるときは必ず事前に連絡をしようと誓い合ったほどであった。

さて、そうこうするうちにも兄は勤勉である分だけ暮らし向きも豊かになり、それに応じて肥満し、頭もハゲた。私は放蕩の分だけ苦労をし、人相も悪くなったので、兄弟の相似点はいよいよなくなってしまった。同じ腹を痛めた子供であるのに、何でこうも違うのかと、母は会うたびに嘆いた。

しかし、血というものは怖ろしい。30の声を聞いたころから突然と私の頭髪が薄くなり始め、それに連動して肥り始め、あまつさえナゼか近眼になり、ある日フト気が付くと、私と兄はウリふたつの容貌になってしまっていたのである。

お互いに多忙で疎遠になっており、久しぶりに親類の祝儀の席で顔を合わせたとたん、私たちはギョッと立ちすくんだものであった。

おまえ、なぜハゲた、と兄は私を責めた。にいさん、せめてヒゲを剃って下さいと私は懇願した。親類の年寄りたちは何が何だかわからなくなってパニクッた。おまけに私たちは太郎と次郎というまことにぞんざいな名前を持っていたので、何となくファンタジックな印象をもって周囲を沸かせたのであった。

後日、兄は執拗に電話をよこして、迷惑だからカツラをかぶれと私に迫った。当然、私は私自身のアイデンティティーを賭けて、それを言うならにいさん、あなたが先にかぶりなさいと要求をした。

そうこうするうちに兄弟は40の峠を越え、年齢に応じてその相似たるや、ほとんど見分けがつかないほどになってしまった。しかし、住いも遠く離れ、稼業も全く無縁であるからことほどさように支障はなく、たまにメシを食いながらイヤな思いをする程度であった。

文学賞授賞式の夜に起こった悲劇

悲劇は今年の春に起こった。

初めて文学賞をいただいた私は、当然畏敬する兄を授賞式に招待した。嬉しくって、あとさきのことを考える余裕はなかった。

帝国ホテルの孔雀の間というたいそうな式場で受賞の言葉を述べているときに、ふと悪い予感がしたのである。満場の招待客の中に同一人物がいるではないか。

しかもあろうことか近ごろでは趣味嗜好までそっくりになってしまった兄は、私と同じような背広を着、同じ色のネクタイをしめ、違うところといえば胸に菊の花をつけていないことだけなのであった。

授賞式はやがて壮大なパーティとなる。そのさなかにも私は、兄の所在が気になってしかたがなかった。

ふと見ると、広い会場の一角に人だかりがある。案の定、大勢の人々が、私と兄とをまちがえている様子なのである。

まずい。これはまずい。なぜまずいかというと、兄弟の唯一共通の性格といえば、極めて如才なく、来る者こばまず、調子をくれるのである。周囲の人だかりを見れば、兄がうりふたつの兄弟であると言う機会を失ってしまい、出版関係者や作家の方々と如才ない会話をしちまっているのは遠目にも明らかであった。

会場はただでさえ誰が誰だかわからんような混雑ぶりなのである。しかも時とともに人々は酩酊して行く。

この際、私が兄のところへ行って一緒にいれば問題はないのだが、そんなツーショットをまちがってグラビアにでも載せられたらたまったものではない。で、大混雑の中、家人を伝令にとばし、「おにいさん、いちいち言いわけも面倒でしょうから、ともかく仕事の返事だけはしないように」と、伝言させた。

余談ではあるが、後日別のパーティで出会った神田駿河台S社の編集者に、「お約束の十月号の原稿、よろしく」といきなり言われ、狼狽した。どう考えても、私には約束をした覚えがないのである。

さて、受賞パーティが終わって、お定まりの二次会となった。この際、悲惨な現実をせめて身近な編集者にだけは知っておいてもらおうと考え、兄も誘った。

かくて人々は、パーティ会場に2人の私が存在していたことを初めて知り、みな等しく驚愕したのであった。

実は、私たち兄弟には複雑な事情があって、私が15の時から一緒に暮らしてはいない。そして兄は、実朝を愛し、太宰を愛する文学青年であった。大学は文学部であり、同人誌も主宰していた。

私は兄を畏敬し、兄に反撥し、誰よりもまず兄に影響を受けて成長してきたのだと思う。

二次会がはねた後、人々は相変わらず兄弟の相似にあきれ返りながら、どやどやと銀座の路上に出た。

私が出がけにトイレに寄ったのはうかつであった。兄は言いわけをする間もなく、講談社のハイヤーに乗って帰ってしまったのであった。

(初出/週刊現代1995年10月28日号)

担当編集者による吉川英治文学新人賞授賞パーティ二次会事件の補足

私は、この二次会を仕切った担当者の一人であった。

会場は、銀座の路地の地下にある大箱の店である。そろそろお開きの時間となり、私は待機していたハイヤーを店の前まで呼び寄せた。そして、浅田さんに声をかけて車までエスコートする。初の文学賞受賞が余程嬉しかったのだろう。満面の笑みでハイヤーに乗り込んだ浅田さんを最敬礼で見送った。

そして、店に戻り、帰り支度をしようとした瞬間、トイレから出てきた人物を見て、愕然とする。

なぜ、浅田次郎がもう1人いるんだ……?

頭の中は真っ白になり、しばし呆然と、もう1人の、いや本物の浅田さんを見つめる。

不思議そうにこちらを見返す浅田さんの「どうした?」の声に、やっと気づく。先ほど見送ったのが、浅田さんの兄上だったということに……。

今さら、兄上が乗ったハイヤーを呼び戻すわけにもいかず、あわてて、もう1台ハイヤーを手配する。

痛恨のミスだった……。だが、文芸局の浅田担当である先輩も、えらい文芸局長も、こわもての週刊現代編集長も、そして、浅田さん本人も、誰も私を責めなかった。ただただ大笑いしていた。

それほど、このご兄弟はそっくりだったのである。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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