今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。ゴルフ・エッセイストとしての活動期間は1990年から亡くなった2000年までのわずか10年。俳優で書評家の故児玉清さんは、その訃報に触れたとき、「日本のゴルフ界の巨星が消えた」と慨嘆した。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。第5回は、ゴルフというゲームの本質を教えてくれた、あるアイルランド人プロゴルファーについて。
画像ギャラリー第lホール パー5 意のままにならぬゲーム
その5 毒ヘビの権利
大のアメリカ嫌いになった理由
アイルランドのゴルファーに共通して言えることだが、プロのデイビッド・ファハティもまた、子供のころから現在までスウィングの基本について考えたこともないそうだ。本人曰く、
「俺は、モーゼの十戒が逃げ出すほどの人生を送ってきた男。生き方の基本も満足に知らないというのに、複雑なスウィングの基本にまで手が回るわけないだろ? 人が逆立ちして打とうと、カニのような姿でパッティングに励もうと、放っておいてくれないか」
残念ながら、彼の名は一部のゴルフ通が知る程度、わが国ではそれほど有名ではないが、ヨーロピアンツアーでは人気の高い男である。その彼、ある出来事に遭遇してからというもの大のアメリカ嫌い、USツアーからきっぱり足を洗ってしまった。
「あれはニュージャージー州で行われたトーナメント初日の朝。2階から食堂に降りて行くと、12人の選手がそれぞれ別の12のテーブルに座って、お互いに話もせずに食事をとっていた。その光景を見た瞬間、やなこった、もう金輪際アメリカではプレーしないと心に誓ったのだ。
その点、ヨーロッパは素晴らしい。すぐ友だちになって一緒にプレーを楽しんだ末に、夜中までバーで大騒ぎ、誰もが家族ぐるみの親戚づき合いに発展する。さらにつけ加えると、アメリカではカネの話ばかり、心からの友人が出来るとも思えなかった。それっきり大西洋の往復はやめてしまったよ」
もう一つ、彼のアメリカ嫌いに拍車をかけたのが、ジャック・ニクラウス設計のコースに対する奇妙なアレルギーだった。友人のイーモン・ダーシーが小声で打ち明けたところによると、なぜかニクラウスのコースで球を打ち始めると、ドライバーからウェッジまで、全ショットがフックするのだ。
この不思議な現象は有力紙「ザ・タイムズ」によって、「ヨーロピアンツアーの七不思議」と命名されたほど相性が悪いのである。
「別に、ニクラウスが嫌いなわけではない」
ファハティは反論する。
「俺は偉大なる帝王に対して、尊敬の念を忘れたことがない。ただ、画家本人の人柄は好きなのに、彼の描いた絵だけが気に入らないケース、それと同じよ」
ゴルフという名の不思議なゲームは、心の持ちよう一つで無上の歓びとなり苦行ともなるが、この不思議な魅力に満ちたプロの生き方を知るにつれて、ある種の憧憬さえ感じ始めた。
彼を紹介するのは、ほかでもない。人生の中で、いかにゴルフとつき合うべきか、さり気なく私たちに教えてくれた人物の一人に思えてきたのである。
そこでアイルランドの大御所的存在、クリスティー・オコーナー・ジュニアに、彼の人柄について尋ねてみた。父親のシニアが築いた「頑固、寡黙、負けず嫌い」というアイルランドプロ伝説に「毒舌」まで加えたジュニアは最高にいい奴、何かにつけ私の取材に力を貸してくれる恩人の一人である。
複雑な人柄を知るための10項目
「おかしな奴だよ。あいつの奇行について語り出したら一日でも足りないぐらいだ。ここに『ザ・ゴルファーズ』というミニ新聞の切り抜きがある。この筆者も苦労したらしく、ようやく彼の複雑な人柄を10項目に整理することに成功した。とにかくおもしろい読み物だ。この切り抜きが彼の人柄を知るのに役に立つと思うよ」
そこで拝借、以下に紹介すると、
①むかし彼は、ベルファストに於(おい)て、ポーランド人の赤髪女性から一年間もオペラ歌手としての訓練を受けたことがある。
②むかし彼は、ベルファストに於て、ポーランド人の赤髪女性から一年間もオペラ歌手としての訓練を受けたことがあるのかと人に聞かれることに、うんざりしている。
③むかし彼は、酒代とオンナ代に困って、プロでありながら身分を隠し、偽名でキャディのアルバイトをしていたことがある。
④むかし彼は、某女性誌の読者投票によって「最もセクシーなスポーツマン」に選ばれたことがある。
⑤1986年のイタリアン・オープンで見事に優勝した翌週、BBCラジオの「サンデー・スポーツ」にゲストとして招かれ、アナウンサーにおだてられ「Just One Cornetto」を歌った。その歌声は甘くせつなく、放送直後から局の電話は嬌声でパンク状態、「ゴルフよりうまい!」と絶賛されたことがある。
⑥1982年から彼は執拗なイップスに悩まされ、5メートルの距離から1メートルしか打てず、1メートルの距離で5メートルも打った時期がある。このショートパット苦手症候群から立ち直るのに、約1年半の歳月が必要だった。
⑦人は運命の不思議な糸に操られ、いつしか現在の仕事につくもの。彼の場合、落ち目になると誰一人見向いてもくれないプロゴルファーになった。従って可能な限り早く、可能な限りたくさんカネを稼いで、辞めたいときに辞めてアマチュアのように心からゴルフを楽しみたいと考えている。
⑧ニクラウスほど心身ともにバランスのとれた男性も稀だが、しかし、彼には少しずつ溜まったストレスを設計図に向かって発散させる癖がある。従って、彼の設計したコースは人格と無関係、ファハティは次のように命名したことがある。「地球上に創造された緑色の地獄」
⑨いまでも彼はプロよりキャディのほうが好きだと断言する。心からゲームを楽しむには、キャディこそ最高の位置だと信じている。
⑩もし神が一つだけ新しいルールの制定を自分に許してくれるなら、次の一項目を加えたいと彼は真剣に考えている。「対戦相手に飛び掛かり、殴り倒してもペナルティにならない」
見出し 人間に謙虚の2文字を教えてくれるゲーム
これが、クリスティー・オコーナー・ジュニアからもらった切り抜きの全文である。ファハティの愉快な一面が如実に語られて申し分ない。
さて、5年ほど前のこと、試合中の彼が毒ヘビに嚙まれたことがある。入院先まで押しかけた報道陣に対して語った彼のコメントが、私には忘れられない。
「注射と点滴、雨あられ。お陰で全身水ぶくれ、隣のベッドで寝ていた何かの中毒患者が、俺の吐く息を吸っただけでたちまち全快したほどだ。もちろん、その憎らしい毒ヘビ野郎は滅多打ちの刑が妥当だと思う。しかし、奴にだって女房と子供がいるだろう、そう考えると許すしかなかった」
この記事に爆笑したあと、彼の心のやさしさに少なからず感動した。別の新聞によると、次のようにも語っている。
「ヘビこそ先住者、われわれは遅れてきた侵入者にすぎない。とかく人間は地球の支配者の如くふる舞うが、この蒼い星で生命が形成された順番は植物が最初で鳥が二番目、昆虫が三番目、恐らく人間は最後に現われたに違いない。先にあったものを抹殺するのは危険な思想だ。ゴルフは人間に謙虚の2文字を教えてくれる最高のゲームだと思うが、どうだろう」
アイルランド出身の1人のプロが、ヘビに嚙まれて人としての摂理に言及したのである。なんと爽やかな発言だろう。謙虚こそゲームの本質と心得るアイルランドのゴルフだけは、未来永劫、健全に違いない。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1934年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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