浅田次郎の名エッセイ

「勇気凛凛ルリの色」セレクト(58)「NGについて」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第58回。絶対に笑ってはならない状況で、どうにもならないくらい面白いものを見てしまったら……。あなたならどうする?

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「NGについて」

国賓と皇族を迎える儀式のプレッシャーの中で

私には緊張すればするほど笑ってしまうという悪い癖がある。

たとえば通夜や葬式、冗談も言えぬ偉い人と会う場合、情況がしめやかであればあるほど得体の知れぬ笑いがこみ上げ、ついには噴いてしまう。

なぜだかわからない。笑っちゃいかん、ここで笑ったら大変だ、と思いつめるほどに、全く意味のない笑いが爆発してしまうのである。

まさにNG(ノー・グッド)である。まちがっても役者やアナウンサーにはなれなかっただろうと思う。

そこで今回は、数ある私家版NG名場面集の中から、極めつきの大賞作品をお送りしようか。時は昭和40年代、私が花の陸上自衛官であったみぎりのことだ。一部の識者の方々にとっては許し難い話であることを、前もってご承知おき願いたい。

ある時、さる国賓待遇の某国大統領が来日のかたわら、わが自衛隊を視察することになった。そこで儀礼上の手順として、部隊内で臨時の儀仗隊(ぎじょうたい)が編成された。本来、公式の儀仗には保安中隊という専門職があたるのだが、どういうわけか私たちの連隊にお鉢が回ってきたのだった。

えりすぐりの隊員が30名、1個小隊分選出された。身長170センチ、眉目秀麗()、なるたけ精悍そうなやつ、といえば、ハゲデブメガネの今日の姿からは想像もつかぬが、私も当然その中に入った。

儀仗というのはつまり、2列横隊に並んで「捧げ銃(つつ)」をし、受礼者の閲兵を受けるという万国共通の軍隊礼である。ほんの数分間の単純な儀式なのだが、一国の「軍」を代表してその威容を披露するわけだから、絶対にNGは許されない。

選ばれた小隊員たちは数日間すべての勤務を免除されて、基本教練をおさらいし、「捧げ銃」の動作を繰り返し訓練した。服装は「甲武装」という正装に、制帽の顎紐(あごひも)をしっかりとしめる。半長靴(はんちょうか)はワックスと己のツバで鏡のごとく磨き上げる。小銃も銃剣もピカピカに手入れをし、弾帯や負い紐はクレンザーとタワシで洗い、頭髪は5厘に刈る。

儀仗はおおむねこのように進行する。

受礼者の登場と同時に「栄誉礼冠譜」のラッパが吹鳴され、抜刀した指揮官の「さァさァげェーつーつっ!」の号令で一斉に着剣した小銃を棒持し、受礼者に着目する。ラッパが「栄光の譜」を奏し、受礼者がゆっくりと隊前を歩いて過ぎるまで、じっとその姿を見守る。「たァてェーつーつっ!」の号令でもとの不動の姿勢に戻る。

その間、銃を捧げた時の銃身を握る音、銃を立てた時の床尾板が地面を叩く音が、ひとつに聞こえなければならない。

30名の隊員は、その音が全くひとつになるまで、厳しい訓練を重ねた。

さて、本番の朝のことである。連隊長がやってきて、正装をこらした隊員たちに妙なプレゼントをした。愕くことにそれは菊の御紋章のついた「恩賜(おんし)の煙草」であった。

私たちが最初にプレッシャーを感じたのはこの時である。

名前も聞いたことのない、太平洋上だか、アフリカだかのどこにあるかもわからない国の大統領閣下とともに、旧帝国軍人でもあられた宮様がお出ましになるというのである。戦後わずか20余年、皇族が自衛隊の儀仗を受けるというのは、おそらく未聞であった。

自衛隊法の定めによれば、最高指揮権者は内閣総理大臣であるが、儀礼上の最高受礼者はもちろん天皇である。すなわち皇族に対しては、天皇に次ぐ4回の「栄誉礼冠譜」が繰り返し吹奏されるのである。

この歴史的な儀仗の朝に、あらたまって「恩賜の煙草」を下賜された隊員たちは、みな等しく数十トン級のプレッシャーを感じたのであった。

営庭を出発するころには、もう冗談ひとつ言えぬ緊張感が漲(みなぎ)っていた。若い防大出の儀仗指揮官など、まるで斬り込み隊長のようにカチカチになっていた。

目の前に現れたのは怪人だった……

私たちは何だかおもちゃの兵隊みたいな足どりで1号館前の広場に向かった。途中まちがって隣のやつの足をふんづけた。そいつの半長靴は磨きすぎで、ほとんど「蝋びき」状態になっており、踏んだ途端にパリッと割れた。

「ああっ!」と、そいつは叫んだ。

「す、すまん」と私は言った。

靴どころか、私たちの神経も下手に触ればパリッと割れてしまうぐらい緊張していた。

絶対に笑ってはならなかった。

私たちはあのいかめしい1号館の、まるで巨鳥が舞い降りたような荘厳な影の下に整列して、じっと儀仗の時を待った。見上るだけで極東軍事裁判の法廷であったこととか、三島由紀夫がそのバルコニーに立ったことなどを彷彿(ほうふつ)とさせられる、あの建物の前庭だった。

絶対に、絶対に笑ってはならなかった。

その状態で予定外に小1時間も待たされた。緊張は限界を超えていた。尿意をこらえねばならず、屁もこらえねばならず、私たちはひたすら、じっと待った。

そしてついに、赤い絨毯を敷きつめた車寄せに、某国大統領とモーニング姿の宮様がお出ましになった。きら星の如きそうそうたる将官たちが後に随(したが)っていた。

一瞥したとたん、(まずい……)と感じた。

日ざしの中に現れた国賓の大統領閣下は、どうみても体重200キロ超、まさにこの世のものとはおもわれぬ異形の怪人だったのである。しかも純白のおそろしく派手な服装に、満艦飾の勲章をつけ、顔は常人の3倍は優にあった。

今ならば私たちは「小錦」という同種の人類の存在を知っている。しかし当時、小錦はまだハワイの少年であった。つまり私たちは全く突然に、この世にいるはずのない体重200キロの、しかも満艦飾の怪人を目撃してしまったのであった。

絶対に笑ってはならなかった。

直立不動の隊員たちは、みな低い切ない声で、「うーうー」と呻(うめ)いていた。誰かが噴けば一巻の終わりであった。私は奥歯を噛みしめながら心ひそかに今この瞬間核戦争が起って、世界が破滅してしまえば良いとさえ思った。

ラッパ隊が「栄誉礼冠譜」をおごそかに吹鳴した。心なしか彼らの音もあやしげに慄えていた。官譜は定めにしたがって4度繰り返され、やがて受礼者とその一行は巡閲を開始した。

「さ、さ、さァさァげェーつーつっ!」

指揮官はどもった。性格な3挙動で私たちは一斉に捧げ銃をし、受礼者にきっかりと目を据えた。小錦はまるで悠然と花道を往くが如く、ゆっくりと迫ってきた。銃を握る私の手は慄え、腹筋はわなないた。笑うな、笑うなよと、私は懸命に自分を叱咤した。

その時、あたりの異常な気配に気付いた列中の古参隊員が、低い、どうしようもない切迫した声で呟いた。

「……笑うな……笑うなよ……」

これですべてが終わった。世界の破滅であった。まず隣のやつが、プルプルプルと唇を慄わせた。それを合図に、30名は捧げ銃の姿勢のまま、プルプルプルと唱和した。とたんに気がゆるんで、銃剣の先は波のごとく揺れさざめき、尻の緊張もゆるんで苦しげな屁も何発か聞こえた。

不運なことに、おりしも前列のなかばにいた私の正面を、大統領が通過した。私は直立不動のままぼろぼろと涙をこぼし、そしてついに1メートルの至近距離に接近した巨顔に向かって、ブハッと噴き出してしまったのであった。

さてふしぎなことに、この歴史的NGはその後、誰からもとがめられることがなかった。おそらく参会者のお偉方も、無理からぬことだと考えていたにちがいない。

ところで、件の「恩賜の煙草」を私は今も大切に保管している。苦労がかさんで笑いを忘れたとき、小箱を開いてそれをながめる。

すると20余年の時を越えて、問答無用の笑いが甦(よみがえ)る。たいへん不謹慎な話だが、私にとってそれはいまだに、かけがえのない元気の源なのである。

(初出/週刊現代1994年12月10日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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