失明というハンデを乗り越えて、奇跡のホールインワン 歳月が流れて、やがて引退したウォルドラン夫妻は以前からフロリダに求めてあった小さな家で第二の人生を過ごすことになった。 フロリダもテキサスに負けないゴルフ天国、2人にと…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その48 「マギーへの贈り物」
出版社勤務の傍ら、ホームヘルパー制度を創設
1902年からイギリスの首相をつとめたアーサー・バルフォア卿は、大の勲章嫌い、後世に残る名言を残した。
「真に偉大な人物ほど、褒章に対してアレルギーが働く」
そもそも公僕が叙勲されること自体うさん臭い行為だと叫び、下院に対して役人への褒章を禁止する動議を提出したこともある。
わが国でも春秋に行われる恒例の叙勲の中に、おびただしい数の役人がひしめいて見苦しい限り、いまや公僕の定義は消滅した感がある。拝見するに、叙勲漁りの人物の顔、どこかゴキブリに似ている。
1916年にテキサスで生まれたマーガレット(マギー)・ウォルドランをひと言で紹介するならば、名もなき市井の勤勉な女性である。
1939年、ジャーナリストにあこがれた彼女は中堅出版社の「パリングス・プレス」に入社する。3年目、ようやく仕事に慣れた彼女に一つの企画が持ち込まれた。
「しばらくの間、バイロン・ネルソン氏が執筆中のレッスン書を手伝ってくれないか」
編集長の話を聞いて、彼女は躍り上がった。何しろテキサスはスコットランドに次ぐゴルフ天国で、アメリカのゴルフ史を築いたべン・ホーガン、サム・スニード、バイロン・ネルソンが健在であり、多くのゴルファーが彼らに教えを乞うために訪れて大にぎわい。1937年ごろには「ゴルフの梁山泊」の感さえあった。
なかでも、バイロン・ネルソンの凄さは別格だった。
血友病に似た奇病のため早くに引退したが、全盛時にはホーガン、スニードといえども足元に及ばず、1937年のマスターズで劇的な逆転優勝を遂げてトップの仲間入りを果たすと、1945年には3月8日の試合から8月4日に終わったカナディアン・オープンまで、なんとUSツアー11連勝の信じられない快記録まで樹立した。
しかもこの年、120ラウンドの平均ストロークが「68・33」、18ホールのベストスコアが「62」、72ホールのベストスコアが「259」、113試合連続出場して予選落ちなし、気が遠くなるような記録も残している。
「初めてネルソン家を訪ねたときの光景は、いまでも忘れません。あの伝説の人が、エプロン姿で台所に立ってオムレツを焼いていたのです。それから一緒に朝メシを食おうといって、私のパンにバターまで塗ってくれたのです。率直で飾り気のない人柄にびっくり、私はたちまちファンになりました。信じられないことに、それから1ヵ月後、仕事の合間にゴルフのレッスンまで受けるようになったのです」
1947年に刊行された『バイロン・ネルソンの近代ゴルフ』は、彼女の編集能力に負うところが大きかった。
「ゴルフをやるからには、アマチュア競技に出場しなさい。仲間内の馴れ合いゴルフでは絶対に上達しないと彼に言われて、テキサス州女子アマ選手権に出場したのが1967年のこと。それから毎年のように出場しました。でも1967年の7位が最高、本当にゴルフはむずかしいゲームですが、やればやるほどおもしろさに溺れて人生が充実したものになりました」
ご主人のピートと出会ったのも、テキサスのゴルフ場だった。彼は有能な弁護士として信望が厚く、また当時ハンディ3のトップアマとしても界隈に知られた存在だった。
出版社勤務の傍ら、マギーには成すべき事があった。
1946年ごろのテキサスには、孤独な老人のためのホームヘルパー制度が存在しなかった。この問題に関する書籍を編纂したのが縁、心やさしい彼女には放置できなかった。
いくつかの婦人団体と話し合い、ボランティアを募り、企業に基金の拠出も願い歩いた。さらには上院、下院議員も動かして州当局に働きかけ、1960年までにホームヘルパーの組織を作り上げると同時に、州予算を当初の3倍まで引き上げることにも成功した。
病気、孤独、貧困に喘ぐ人たちは、彼女の努力によって派遣されるヘルパーに「マギーの使者」なる愛称を献上した。勲章とは無縁だが、彼女が果たした功績には計り知れないものがある。
失明というハンデを乗り越えて、奇跡のホールインワン
歳月が流れて、やがて引退したウォルドラン夫妻は以前からフロリダに求めてあった小さな家で第二の人生を過ごすことになった。
フロリダもテキサスに負けないゴルフ天国、2人にとっての理想郷のはずが、1978年、疾患が引き金となって彼女は不意に失明する悲劇に見舞われる。
「もうゴルフができない! 生まれて初めて私は声を上げて泣きました。すると夫が言ったのです。バイロン・ネルソン直伝の秘密練習法を忘れたのかね?
次の瞬間、ハッとしました。ある日の練習でバイロンが秘密めかして呟いた言葉を思い出したのです。自分のスウィングをチェックするのに最高の方法は、両目を閉じて振ってみることだと。そうだと思いました。私は闇の中でひと筋の光明と出会い、夫の助けを借りて再び好きなゴルフが始められたのです」
1990年3月18日、信じられないドラマが発生した。家の近くにあるフロリダ州アメリアアイランドのロングポイントGCに出掛けた夫妻は、燦々と降り注ぐ太陽を浴びながら、いつに変わらぬプレーに熱中していた。
7番レディース・ティは87ヤード、例によってピートが旗の位置と風向きを教え、フェースを目標に合わせると、ティの上にボールを乗せてから74歳の彼女に7番アイアンを手渡した。それからアドレスの最終チェックを済ませると、剽軽(ひょうきん)な口調で言った。
「発射準備よし!」
放たれた白球は紺碧の空に舞い上がり、旗竿と重なって落下したあと、小さく弾んでカップの中に吸い込まれた。
「いつも彼は、実況アナウンサーのように方向と弾道を逐一報告してくれますが、そのときに限って、よし! よし! と叫ぶだけ。
次にウワァーと叫んで、いきなり私を抱きしめたのです。ただならぬ気配で私にも何が起きたのかわかりました」
奇蹟はさらに続く。その翌日、興奮冷めやらぬ夫妻が同じコースに到着すると、待ち構えていた友人にコース関係者まで加わってキスと抱擁でもみくちゃだった。
ようやくスタートしたあとの12番、105ヤードまでやってくると、追い風だったこともあって彼女は再び7番アイアンを手にした。目標にフェースを合わせながら、夫のピートが歌うように言った。
「夢よ、もう一度。さてホールインワンのための準備よし!」
次に演じられた光景は、まるでビデオの再現だった。舞い上がった白球はピンの手前に落下したあと、再び見えない糸にたぐり寄せられたのである。2日連続、まさかのホールインワンが誕生したのだ。
「何か叫びながら、いきなり彼が抱きついた勢いで私たちはティグラウンドに倒れてしまったのです。本当に何が起きたのか、私にはわからなかった。ようやくホールインワン達成だと知ったとき、これは彼得意の冗談だと思いました」
冗談どころか、連続の快挙はギネスブックにも記録された。
偉大なる彼女は自らのハンディを乗り越え、全盲の身でありながら1ラウンド平均「100」のスコアを保って75年の高潔な人生をまっとうした。
快挙は、天が与えたもうた勲章だったに違いない。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。