1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載。第23回は、浅田次郎さんの出世作となった『蒼穹の昴』が刊行される直前に書かれた回である。この大作は、当時まったく売れていない物書きだった浅田さんと、浅田さんに賭けた一人の辣腕編集者にとって壮大なチャレンジだった。
画像ギャラリー「上梓(じょうし)について」
なぜ脱稿から校了まで7ヵ月を要したのか
長篇小説の脱稿を宣言したのは、たしか去年の9月であったかと思う。
古来わが業界では、作品を書き上げることを「脱稿」と言い、出版されることを「上梓」と呼ぶ。いずれも言い得て妙な言葉であろうと思う。
梓は硬く弾性のある木で、弓の素材として用いられたことはよく知られているが、実は同じ特性からかつては版木に利用された。書き上がった原稿を、心をこめて梓の版木に刻み、世に上せる。いい言葉である。
ところで、今にして思えば私の脱稿宣言はやや早計であった。ふつう小説は脱稿の後、著者の校正、出版元の校閲を経て、早ければ1ヵ月以内、遅くとも2ヵ月程度で上梓に至る。したがって脱稿から7ヵ月も経つのに出版されないというのは、ちょっとした異常事態なのである。
当然、日の経つうちに業界では「浅田次郎大原稿ボツ説」が流布された。
私はこらえ性がないので、執筆開始にあたってはさあ書くぞと公言してしまい、中途では誰彼のみさかいなく粗筋や結末までしゃべってしまい、脱稿に際してはあろうことか「脱稿について」なんぞというエッセイまで書いてしまう。そうしたラッパを3年にわたって吹き鳴らした後で、脱稿はしたらしいのだが7ヵ月も本が出ないとなると、自然に「浅田次郎大原稿ボツ説」が囁かれるわけである。
元来私は文壇のカラメ手から侵入してきた感じがあり、多くの読者や関係者から「極道系作家」「小説もたまに書く競馬予想家」「週刊現代にお笑いエッセイを書いている人」と認識されている。
つまり、そんな私が「近代中国を舞台にした1800枚の大長篇小説」を書いていると公言するのは、たとえば隣の棟梁が「実は新宿の高層ビルを建てている」と言うようなもので、相当に疑わしい話であったろうと思われる。
しかも版元は業界のガリバー講談社、担当編集者は先年髙村薫氏の『照柿』を世に送り出したO氏であるとなれば、「大原稿ボツ説」の信憑性もいや増す。
ために近ごろでは、誰もその件について訊ねようとはせず、何となく再起不能の棟梁を見るような目で、気の毒そうに私を見るのである。
しかし、謎の7ヵ月にはそれなりの意味があった。私とO氏は初校ゲラを通読したとたん、わがことながら余りのデキの良さに腰を抜かしてしまい、卒然として昨今のハイテク出版事情に逆行しようと決意したのである。
以来、この長篇の再校ゲラを改むること4度、連日夜を徹して議論を戦わし、ついには殴り合うこと3度に及んだ。その間、両者はともに四十肩が悪化し、目もすっかり遠くなった。しまいにはもともと長身瘦軀のO氏はさらに5キロも瘦せ、私は過労がたたって右耳を失聴した。
ひとけの絶えた真夜中の編集部で、7ヵ月にわたる作業を終了したとき、O氏が呆然と呟いた「おつかれさまでした。これで校了します」の一言を、私は生涯忘れないだろうと思う。
人生にはチャンスが何度もある。毎日のように訪れる小さなチャンスは、摑むも摑まざるもその効果はたかが知れているが、結果の積み重ねがさらなるチャンスを招来することは確かだ。そしてやがて、一生に3度しかないと言われるビッグ・チャンスがめぐってくる。私とO氏はともに、初校ゲラを通し読みしたとき、これこそおたがいのビッグ・チャンスにちがいないと感じたのだった。
「陰の人々」の功績あっての上梓
上下2巻、2段組というたいそう手強い本になる。
物語の舞台は清朝末期の中国、西太后の時代である。
河北の曠野(こうや)に生きる貧しい糞拾いの少年が、ある日、韃靼(だったん)の老占星術師の口から、思いもかけぬ未来を予言される。
「汝は遠からず都に上り、紫禁城の奥深くおわします帝のお側近くに仕えることとなろう。やがて中華の財物のことごとくをその手中にからめ取るであろう──そう、その皹切(あかぎ)れた、凍瘡(しもやけ)に崩れ爛(ただ)れた、汝の掌(てのひら)のうちに」
こうして長い物語は始まる。
清朝末期は、作家である以前に歴史マニアである私の、最も興味を持つ時代であった。
東洋的マキャベリズムの崩壊。欧州列強の理不尽な侵略。そうした歴史の流れとは一切関係なく厳然と守られる科挙制度。あるいは宦官(かんがん)という宮廷奴隷の存在。中国的コミュニズムの自然萌芽。国家的目論見によって歴史を捏造(ねつぞう)するジャーナリズムとその良心の所在。混沌における神の不在。そして人間の力の、神の意志を超克する可能性。
エッセンスを抜き書けば難解に思えるが、極めて読みやすい小説であると思う。私は作家の信条として、一部の読者にしか理解しえない小説はたとえどれほどの芸術的水準に達していようと小説としての価値はないと考えているので、この点については最も心を配ったつもりである。
さて、コマーシャルはともかくとして、上梓にあたっては件のO氏を初め、多くの方々のご助力をいただいた。いや、それは助力と呼ぶほどのなまなかなものではない。ほとんど私をめぐるプロジェクト・チームの総合力によって上梓された。
多くの読者はこのように臆面もなく著作の喧伝をする私を、訝(いぶか)しく思うであろう。だが私は、私の作品とされるところのこの小説が、読者の目には触れぬ多くのスタッフの成果であると知っているから、たとえ怪訝に思われようとも、私の良識を疑われようとも、刊行の宣伝をせずにはおられないのである。「拙著」などとは、どうしても呼ぶことができないのである。
立派な装幀を施された本の表紙には、当然のことながら私の名前しか記されてはいない。だが本来は、私の名に並んでO氏の実名が記されていなければならぬはずであり、さらには著者以上の資料を繙(ひもと)き、長大な原稿を数度にわたって校閲して下さった陰の人々の名が記されていて然るべきだと思う。
私が作品中の後半部に登場する日本人ジャーナリストに、O氏の実名を冠したことは決して座興ではない。できうるならば校閲にたずさわったお顔も知らぬ方々の名前を、すべての登場人物の名前に置きかえておきたかった。
いつでもそうなのだが、私は上梓された本の表紙を見るたびに、いかにも私ひとりで書いたのだと言い張っているような面映ゆさを感じる。社業が社長個人の栄光だと言っているような、あるいは恩師や父母のことを忘れて、自分ひとりで成長いたしましたと誇っているような、愚かしさを感ずるのである。
そんな結構な人生など、世の中にあるはずはない。
昨年の今ごろ、つまり長篇小説の執筆がクライマックスにさしかかっていたころ、別の作品で吉川英治文学新人賞をいただいた。この受賞が作品を完成させたと言ってもよろしいかと思う。
私はべつだん吉川英治のファンではなく、文学的な影響を受けたということさらの自覚もない。ただし、その小説家としてのスタンスを、深く尊敬している。
吉川英治は作品が上梓されるたびに、活版技術者の苦労を口にしたという。自らがかつて活字ひろいの徒弟であったからである。
同様に何ら資格も学歴もなく作家になった私は、このエピソードを看過することができない。自らがしてやったりと誇るのは、万馬券的中の快挙のみである。
打ち上げをした銀座のバーで、O氏に「オレ、顔が変わってないか」と訊ねたら、「変わっていない」と答えてくれたので少しホッとした。3年にわたる執筆の間にすっかり頭もハげ、片方の耳は聴こえなくなってしまったけれど、顔つきさえ偉そうになっていなければもっといい小説が書けると思う。
プロジェクトの名誉と栄光のために、もういちど宣伝をする。
すべての読者の人生観と世界観をくつがえす大歴史スペクタクル『蒼穹の昴』。上下巻各1800円。来たる4月18日、講談社より全国一斉に上梓される。
(初出/週刊現代1996年4月20日号)
編集後記
ここに登場する編集者Oさんは、このエッセイの担当であった私もたいへん世話になった先輩だった。面白い小説を世に出したいという熱量にぐいぐい感化された。
Oさんが担当した『蒼穹の昴』は、清朝時代の中国を舞台にした歴史スペクタクルである。扱うとすれば手練れのベテラン歴史小説家であり、ほぼ無名の駆け出しの作家が書くと言っても、まず通らない企画だ。しかも、上がってみたら原稿用紙1800枚の大作。普通ならボツになる原稿だ。それが、世に出たのは、当然、浅田さんの圧倒的な筆力による作品の素晴らしさがあるが、Oさんの新しい才能に賭ける度胸と熱量のなせる業だったとも言える。
浅田さん以外にも数多くの作家の代表作にかかわったOさんだが、この『蒼穹の昴』上梓の9年後、53歳の若さで世を去った。
浅田さんと同年なので、もしまだ存命なら70歳。古希までとは言わないが、せめて定年の年まで生きていてくれたら、どんな仕事をしたのだろうと、今でもよく考えてしまう。
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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