マンモス西の印象的なエピソード 実は今回に限って、何を食べるかは決めていた。印象的なエピソードがあったからだ。 ジョーと共に汗を流すマンモス西は、減量するがなかなか体重が減らない。実はひもじさに負けて夜な夜なジムを抜け出…
画像ギャラリー小説『バスを待つ男』などの著作がある作家の西村健さんは、路線バスをテーマにした作品の書き手としても知られています。西村さんが執筆する「おとなの週末Web」の好評連載「東京路線バスグルメ」の新シリーズが始まりました。名店に巡り合った第1弾、そして商店街編、武蔵野編に続く第4弾は「アニメ聖地巡礼編」。日本アニメ史に名を刻む傑作にゆかりのある街を歩きます。
“日雇い労働者”の町「山谷」
東京最大の“日雇い労働者”の町、山谷(さんや)。かつては安宿、いわゆるドヤ(「宿」を逆さにした隠語)が立ち並び、路上に酔っ払ったオッチャンが延々ゴロ寝する、異様な雰囲気だった。
実は私も20代前半、旧労働省(現厚生労働省)の研修で訪れたことがある。朝イチの地下鉄日比谷線、南千住駅を出て職安に向かうと、途上のそこら中にオッチャンが座るか転がっていて、チンチロリンをしてるか寝ているか、のどちらか。「ここは本当に東京なのか!?」とショックを受けたものだった。
ボクシング漫画の金字塔にして、「戦後最大のヒット漫画の一つ」(Wikipediaの表現より)『あしたのジョー』はこの町が舞台だ。ジョーが汗を流す「丹下拳闘クラブ」は山谷の「泪橋」の下にあるという設定で、貧しい中にも逞しさを有す、地元住民に応援されながら栄光を目指すストーリーには、さすがここを舞台に選んだ迫真力があった。
「山谷」という地名は今はなく、台東区の北部と、荒川区南部の一画をこう呼び習わす。鉄道駅のどこからも遠いので、「バスグルメ」で行くのはなるほど説得力もある。前回の東映アニメーション大泉スタジオを訪ねた時は、半ば強引にバスに乗りましたからね(笑)。いくつかルートはありますが、今回は浅草から都バス「草64」系統に乗ってみましょう。
この路線、「東京路線バスグルメ」シリーズ第1弾の第5回「『砂場』総本家」に行く時にも乗りました。浅草寺の雷門から南側に行ったところに乗り場があり、ぐるりと回り込んで東武浅草駅の脇に出ると、後は「土手通り」を北上する。あの時は落語『付き馬』に擬して、「吉原大門」で途中下車したりしました。
今回はその一つ先、「日本堤」バス停で降りてみる。最初の目的地には確かこっちが近かった、との記憶があったからだ。
ところが行ってみたら、ちょっと歩いた。これじゃ「吉原大門」で降りてもよかったかな。まぁ、しゃぁない。
とにかく最初の目的というのが、これ! 山谷の名物“立つんだ像”。言うまでもなくジムの代表にしてセコンド丹下段平が、リングでダウンしたジョーに叫ぶ「立つんだジョー!」を捩(もじ)ってるわけですな。「あしたのジョーのふるさと」としてアピールするために置かれたものです。今もこの町のシンボルで、ファンが記念撮影してる姿をよく見掛ける。「聖地巡り」がテーマなら、まずはここに来るのがスジってモンでしょう。
このすぐ近くには、ムチャクチャ有名な店がある。同じ通り沿いに立つ、天丼の名店『土手の伊勢屋』。明治22年創業という老舗で、建物からは風格すら感じられますな。亡くなった名優、原田芳雄サンが「オレにとってのこの世で最高のご馳走は、ここの天丼」と明言してた。その気持ち、本当によく分かります。
ただ、今日はここには入らない。やっぱりジョーの世界と、豪華な天丼とはあまり合いませんからね。
マンモス西の印象的なエピソード
実は今回に限って、何を食べるかは決めていた。印象的なエピソードがあったからだ。
ジョーと共に汗を流すマンモス西は、減量するがなかなか体重が減らない。実はひもじさに負けて夜な夜なジムを抜け出し、屋台でうどんを食べていたのだ。現場を見つかり、ジョーに殴り倒される。鼻からうどんを垂らしながら、西は「わいはダメな男や」と咽(むせ)び泣く。『あしたのジョー』を読むか観た人なら、強烈に記憶に残るエピソードでしょう。
だから今日、食べるのは、うどん!
ということで歩き出しましょう。まずは「いろは会商店街」へ。ここにはかつてアーケードが架かっており、ジョーの垂れ幕が頭上に飾られ、丹下段平やサチなど各キャラクターの立て看がずらり並んでた。
……ところが、ない。ない!
アーケードが撤去されたことは知ってたので、垂れ幕はないだろうとは予想がついたけど、可愛いキャラクターの立て看も全て消え失せているのだ。これじゃ「ジョーの町」と言ったって、示すのはさっきの「立つんだ像」しかないじゃん、ねぇ(涙)
辛うじてあったのは、商店街のクリーニング屋の入り口に貼られた、ジョーのイラストだけでした。以前は通り沿いのパン屋さんが、グローブの形をしたパンを売り出すなど、商店街を挙げてPRしてたのに、なぁ。
写真のネタが一気に減ってしまった。商店街沿いで、うどんも出す「蕎麦屋」さんを見つけたけど、定休日なのか閉まってた。
「マンモス交番」はいま……
気を取り直して、山谷を代表する風景を撮って回りましょうか。まずはマンモス交番。かつては暴動も起こった町なので、機動隊が常駐してた。なので、かつては新宿ゴールデン街のものと並んで、警視庁最大の規模を誇ったが、現在のは移転した位置にある。
それから、玉姫稲荷神社。この町の鎮守様です。ジョー達も必勝祈願で、ここに手を合わせに来たのかな?
そして私も研修に来た、「上野公共職業安定所 玉姫労働出張所」。日雇い専門の職安です。
実は以前とは場所がちょっと移り、建物もずっと小規模になってる。かつての労働者のオッチャンも、歳をとって激しい労働には耐えられなくなってますからね。あの頃とは何かと事情が変わってしまってるわけです。
拙著『最果ての街』(ハルキ文庫)では改めてこの町を取材し、山谷の現状を描きました。今がどうなってるのか詳しく知りたい方は、どうぞ読んでみてください(笑)
いきなり宣伝までしちゃいましたが、歩き回ってて「平賀源内の墓」なんてものも見つけた。この存在だけは知らなかったなぁ。
泪橋の実態
そして、いよいよ……やって来ましたぁ、泪橋!
あれ、ただの交差点? 橋なんかないじゃないの!? と思ったあなた。そう、その通りなんです。かつてはここに「思川(おもいがわ)」という流れがあって、橋が架かってたんだけど、ジョーの時代にはとうに埋められてしまってた。だから橋の下にジム、という設定はあの頃から既に成り立たなくなってたんです。
でもまぁ、いいじゃないですか。
この先には江戸時代、小塚原刑場があった。死刑囚は刑場に向かう途上、ここで遺族らと涙の別れをした。なので、「泪橋」という名がついたわけです。
行く先は絶望の処刑場。だからお前はこの橋を逆さに渡って、栄光を目指すんだ。丹下段平がジョーに言う。何て上手い表現なんだ〜!? と未だに感動しちゃいますね。
だから、いいんです。実際には橋はなくなってても。ジョーの世界には橋はあり、その下にジムがあった。それで何の問題もありません。今は「栄光の方角」に、東京スカイツリーが聳(そび)えてますね。
「マンモス西を引退させた味」
さぁいよいよグルメの方へ行きますか。
マンモス西が食べたのは屋台のうどんだから、立ち食い。やっぱり立って食える店でなきゃいけないよなぁ。ちょっと山谷の範囲からは離れちゃうけど、確か地下鉄三ノ輪橋駅の近くに立ち食い蕎麦屋があったぞ。
記憶を頼りに行ってみると、やはりありました。駅の出口のすぐ隣。「信州そば」の幟(のぼり)がはためいてて、お蕎麦が自慢なんだろうけど、ここは初心貫徹。うどん!
それにしてもメニューがたくさんで迷ってしまう。西は「かけうどん2杯」を頼んでたけど、いつも言ってる通り私は少食だし、「かけ1杯」じゃ何だかなぁ、ですよね。
そこで、「ゲソ天うどん」(550円)を選択。
いやぁ、いいねぇ。
東京のうどんはお蕎麦に合わせて、醤油たっぷりの黒いツユが多いけど、ここのはほんのり薄茶色。その分、ダシの香りが引き立ってうどんに合う、合う!!
ゲソ天はかき揚げ状だったのが、ツユが沁みて解(ほぐ)れてくる。その過程がいいのですよ。揚げ立ての、サクサクのコロモもよし。でもツユを吸って柔らかくなったのも、またよし。もちろんその中間の段階の食感も楽しめる。
だからこの辺のは、サクサク食べるために素早く口に入れて、この辺のはフニャフニャになるのを待つ。更にこの辺のは、解れゆく過程を楽しみつつ、口に入れる。丼上のかき揚げの、どこをどんな風に味わうか。段取りを楽しんでる内に、あっという間に食べ終わってました。いやぁ、これは堪(たま)らない。
マンモス西は結局ボクシングの道を諦め、地元の食品店の紀子ちゃんと結婚する。「うどん事件」が引退の直接の原因になったわけじゃないけど、やっぱり決意の裏には、あの経験があったことは間違いないでしょう。
だからこれは、「マンモス西を引退させた味」。勝手に命名して、この地を後にしました。
【『あしたのジョー』のストーリー】
東京・山谷の「ドヤ街」にふらりと現われた少年、矢吹丈。ヤクザと喧嘩している姿を見た元ボクサー、丹下段平はその天性的才能を見出す。だが段平が説得しようとしてもジョーは聞く耳を持たない。悪事を繰り返し、とうとう特等少年院に送られてしまう。
少年院には現役ボクサー、力石徹がいた。試合でヤジを飛ばした観客を殴ってしまい、収監されていたのだ。喧嘩自慢だったジョーだが、力石と戦ってみると全く歯が立たない。
ボクシングの素晴らしさに目覚めたジョーは出所後、段平の下で本格的なトレーニングを始める。ライバル力石を倒し、世界一の栄光を目指す「あした」のために……
『峠の蕎麦』の店舗情報
[住所] 台東区三ノ輪2-14-8
[電話]非公開
[交通]地下鉄日比谷線三ノ輪駅3番出口からすぐ右
※新型コロナウイルス感染拡大の影響などで、営業時間や定休日は変動します。
西村健
にしむら・けん。1965年、福岡県福岡市生まれ。6歳から同県大牟田市で育つ。東京大学工学部卒。労働省(現・厚生労働省)に勤務後、フリーライターに。96年に『ビンゴ』で作家デビュー。2021年で作家生活25周年を迎えた。05年『劫火』、10年『残火』で日本冒険小説協会大賞。11年、地元の炭鉱の町・大牟田を舞台にした『地の底のヤマ』で日本冒険小説協会大賞を受賞し、12年には同作で吉川英治文学新人賞。14年には『ヤマの疾風』で大藪春彦賞に輝いた。他の著書に『光陰の刃』『バスを待つ男』『バスへ誘う男』『目撃』、雑誌記者として奔走した自身の経験が生んだ渾身の力作長編『激震』(講談社)など。2023年1月下旬に、人気シリーズ最新作『バスに集う人々』(実業之日本社)を刊行予定。