浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎『蒼穹の昴』執筆の裏で、映画『ラブ・レター』に起きていた奇蹟

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第60回は、作家が書いた小説が初めて映画化されたときに起きた奇跡的な出来事について。

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「ラブ・レターについて」

大長編の執筆中にカンヅメにされた保養所で

直木賞をいただいた短篇集『鉄道員(ぽっぽや)』から、3篇が別々に映画化されることになった。

その第1弾として、『ラブ・レター』が全国松竹系の映画館で公開され、原作者はただいまてんてこまいの忙しさである。

よく考えてみれば、映画は監督の「作品」であり、原作を提供しただけの私が営業に飛び回るのは、いささかはしゃぎすぎという気がしないでもない。この点はおなじみ「お祭り次郎」のキャラクターがなせるワザではあるが、案外きちんと考えていることもある。

ひとりでも多くの人に、小説を読んでほしい。むろん私の小説を、という意味ではなく、テレビも映画もいいが小説という娯楽を持ってほしいと思う。だから映画を観て感動した人が原作を読み、小説の楽しみを知るためには、小説家である私はできうる限りの努力をしなければならない。これはつとめであると思う。

文芸こそが文化の旗手であるとされていた平和な時代はとうに終わっており、今やコンピューターとビジュアリズムとがその主役であることは疑いようがあるまい。

社会の姿がすでにそのような形になっているのであるから、時流に超然として小説を書くことはおそらく滅びの道に通ずるであろう。

滅びは大げさにしても、「読む人だけが読めばよい」という作家の姿勢は、小説をいずれマニアックな、特殊な文化に変形せしめる。ならばこの際ビジュアリズムと共存しつつ、あるいはその実力を借りて小説の復興をたくらむのは、あながち卑屈な方法ではあるまい。

長いこと売れない小説を書き続けてきた私は、売れないという事実そのものが私の作品を貶(おとし)めていると考え続けてきた。売れないことが悔やしいのではなく、売れる小説を書けぬ自分が情けなかった。

売れる小説はいい小説であり、いい小説は売れるはずだからである。すぐれた芸術は常に大衆とともにあり、そうした普遍性のない芸術はまがいにちがいないからである。

かくて私は「お祭り次郎」と化し、顰蹙(ひんしゅく)を買い譏(そし)りを受けつつ、きょうも営業に飛び回る。

ここまでの原稿を読み返し、あまり普遍的でない気がしたので突然ではあるがトーンを変える。

短篇集『鉄道員』は5月末日現在、なんと90万部も売れちゃってるのである。うれしい。すごくうれしい。印税のあらかたは税務署とJRAに召し上げられたけれど、銭カネの話は別にしても、すごくうれしい。

90万部といえば、ミリオン・セラーまであと一歩、いわば指呼(しこ)の間(かん)と言えよう。思い起こせば一年前、初版二万五千部でスタートしたこの本が、こんなことになろうとはまさか考えてもいなかった。

手元にある初版のオビには、「あなたに起こるやさしい奇蹟」なんて、歯の浮くようなキャッチ・コピーが付いているが、今にして思えばまさに大予言のごときフレーズであった。

ところで、このたび映画化された「ラブ・レター」という短篇は、この『鉄道員』の中に収録されているのであるが、これぞまことに奇蹟のようないきさつがある。作品および映画の尊厳をあやうくする可能性を承知で、こっそりと「ラブ・レター」執筆秘話を公開してしまおう。

3年前の今ごろであった。当時私は長篇小説『蒼穹の昴』をコツコツと書いていた。脱稿予定日はすでに半年も超過しており、業(ごう)を煮やした担当編集者が、ある日突然私を拉致(らち)したのであった。

版元音羽屋は業界のガリバーである。ガリバーは金持ちであるから、ついこの間もニューヨークに招待してくれたし、そのわずか2週間前には中国にも連れて行ってくれた。しかし、いかに金持ちガリバーとはいえ、まったく商品価値のない3年前の私を外国に拉致するわけはなく、千葉県外房の千倉(ちくら)という漁村に私を連れて行ってくれたのであった。

なぜ千倉かというと、そこに音羽屋の保養施設があったからである。つまり、シーズン・オフで部屋も空いているから、そこで小説をセッセと書け、というわけだ。

ほんの一瞬の出来事で書き上がった小説

ものすごくありがたかった。なにしろそのころの私は極めて劣悪な執筆環境にあり、居間兼書庫兼寝室兼食堂兼書斎の6畳間に、家族もろとも13匹の猫もろとも暮らしていたのである。しかも『蒼穹の昴』は1000枚を超え、物語はいよいよ佳境に入っていたのであった。

自分で言うのも何だが、私はけっこう働き者なので、カンヅメにされればみごとシャケになる。で、千倉の保養所における1週間は、ほとんど散歩にすら出かけず、ダルマのごとく座り続けて原稿を書いた。ちなみにそのとき書いた部分は、同著下巻第62節の西太后暗殺未遂事件のくだりである。

さて、6月初めの会社保養所といえば、当然利用者は皆無である。芝生の庭ごしに望む渚にも人影はなく、私は執筆に疲れればぼんやりと浜千鳥のたわむれを眺め、目を閉じて潮騒(しおさい)を聴いた。

ガランとした食堂で賄(まかな)いの朝食をいただいた帰りであったと思う。長い廊下を歩いて部屋に戻る途中、フト西向きの窓辺で私は足を止めた。

空地の向こうに白いペンキを塗りたくった家がある。一見したところアーリー・アメリカンふうの瀟洒(しょうしゃ)な2階家であるが、青空を背にしたたたずまいはどことなくぎこちない。

外階段の踊り場でフィリピーナが鼻歌を唄いながら洗濯物を干しており、2階の窓辺には2段ベッドに横たわる女の頭が見えた。陽気でかまびすしい外国語のやりとりが聴こえてくる。

そこが外国人女性を商品とする曖昧酒場であることは明らかであった。

暇にかまけてその風景を眺めているうちに、何だかとても切ない気分になった。彼女らの身の上をあれこれと想像したからではない。彼女らの日常を何の違和感もなく受け容れ、まるで渚にたわむれる浜千鳥を見るのと同じ目でそれを眺めている自分に嫌悪を感じたのであった。

これはふつうではないと思った。彼女らの存在よりも、また彼女らを夜な夜な抱きにくる男たちの存在よりも、天然の風景を眺めるようにそれを眺める自分はふつうではないと思った。

洗濯物を干していた女は私に気付き、片言の日本語で何かを言い、手を振った。すると2段ベッドに寝ていた中国人らしい女も半身を起こし、こちらを向いて何かを話しかけた。まばゆいほどの笑顔であった。

時間の単位では計れないほんの一瞬、私の中で小説が書き上がった。

森崎東監督の手になる映画『ラブ・レター』を試写会で観たとき、びっくりしたことがある。何と監督は私が原作の想を得たその家を、そっくりそのままロケ場所に使っていたのであった。

むろん私は何も語ってはいない。だが映画の後半に登場する海辺の曖昧酒場は、まちがいなく私が原作を着想した家そのものであった。

〈車はやがて、海岸通りの手前にぽつんと建つ店の前で止まった。真白にペンキを塗りたくられた二階家で、出窓には豆電球が点滅し、いかにもそれらしい名前の看板を掲げている。煙るような雨の中で、ネオン管がジイジイと鳴いていた〉

この店についての描写はわずかこれだけ、原作本の行数にすれば、たったの3行である。森崎監督はこの3行の描写から、私が着想した家を正確に探り当ててしまった。

まさに奇蹟を見る思いで、私はこの映画を観た。

小説とビジュアリズムとは共存しうる。文化を創造するという不変の意志がたがいにある限り、芸術の神はわれわれの上に微笑み続けるであろう。奇蹟とはそうした意志力の、必然の結果であろうと思う。

ではこれより、「お祭り次郎」に変じて映画『ラブ・レター』の営業に出かける。

(初出/週刊現代1998年6月13日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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