浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎が洋式便座を毛嫌いするに至った自衛隊時代の労苦

新人自衛隊員たちの阿鼻叫喚の図 当時、新隊員の多くは農村出身者で占められていたから、教育の第一課目はとりも直さず「洋式便座の使用法」であった。十数名の班員は班長に引率されて隊舎の端にある広大なトイレに向かった。 ドアを開…

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「便座について」

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第65回。現在60歳以上の世代が子供の頃、まだ住宅のトイレは和式の方が圧倒的に多かった。そんな彼らは西洋式の便座の初体験をどのように乗り越えてきたのか。

西洋式便座が異物だった時代があった

私は狂信的な国産品愛用者である。

いわゆる海外ブランド品には全く興味がなく、むしろ軽蔑し、憎悪している。昔から一貫して時計はセイコー、万年筆はパイロット、車は三菱、犬は柴犬、猫はミケ、と決めている。旅に出るときもJALかANA以外は信用せず、通じようが通じまいが徹頭徹尾、世界の涯はてまで日本語をしゃべり続ける。

趣味というよりも、むしろ信仰に近い。当然のことながら生活様式もすべて和風に統一し、書斎にあっては古色蒼然たる文士スタイルで座机に向かい、夜は蒲団を敷いて寝る。

したがって、生活の中に機能性と合理性を求める家人との間には常に諍(いさか)いが絶えない。つまり亭主の趣味に従っていると、家事労働が倍になる、というわけだ。

しかし家では私が法律なので、家族の請願は一顧だにされず、娘はかわいそうに和室でピアノを弾いている。

唯一の例外は便所である。私にとっての便所は決してトイレではなく「厠(かわや)」であるので、当然わが国固有の伝統と格式を誇る「きんかくし」を採用したのであるが、ある日旅から帰ると、無断で洋式便座に改良されていた。

私の失意と絶望は名状しがたいものであった。実はこの洋式便座こそ、私の最も軽蔑し、憎悪する代物なのである。趣味の問題ではない。理由はちゃんとある。

第一にりきみが利かぬ。第二に排便を観察できぬ。第三に便座に肌を接することは、不快かつ不衛生である。第四に姿勢が屈辱的である。

しかし喧々囂々(けんけんごうごう)たる家族会議の結果、一対三の多数決を以ていまわしき西洋便座は不動のものとなってしまった。私の正当な主張がナゼ理解されないのか、今もって腑に落ちない。

ところで、私が初めて西洋式便座なる異物を使用したのは小学生のころである。生家が没落する前のこととて、私は私立のミッション・スクールに通っていた。当然お友達はみな貴顕であった。ある日、初めて遊びに行った友人の家に、それがあったのである。

洋式便座どころかほとんどの家が汲取式であった昭和30年代のこと、ドアを開けたとたんの私の愕(おどろ)きととまどいは、まさに驚天動地のものであった。もっとも、同年輩以上の読者諸氏はみないちどは、この強烈なカルチャー・ショックを体験しているであろう。

で、みなさん同じことをしたと思うのだが、私もしごく自然に考えて、前向きにまたがった。その瞬間に正しい使用法──すなわちドアに向き合った後ろ向きの姿勢を考えついた方は、まずいないと思う。

そのとき私はハッキリとこう考えた。アメリカ人は何とマメなのだろう。いちいちパンツを床に脱ぎ置いてクソをするのか、と。

さて、時勢の赴(おもむ)くところその後あちこちに洋式便座は出現することになるのだが、多くの方がたぶんそうであったように、私もそれを使用するのはよほどの緊急の場合に限られていた。

どうしても使わざるを得なくなったのは、昭和46年の春、自衛隊に入隊したときである。朝霞駐屯地の教育隊隊舎は、つい先ごろまで米軍が使用していたために、すべての便器が洋式だったのである。

新人自衛隊員たちの阿鼻叫喚の図

当時、新隊員の多くは農村出身者で占められていたから、教育の第一課目はとりも直さず「洋式便座の使用法」であった。十数名の班員は班長に引率されて隊舎の端にある広大なトイレに向かった。

ドアを開けたとたん、おおっとどよめきが起こった。

「注目! いいか、これが洋式トイレだ。使い方を知っとる者いるか」

愕くべきことに、挙手したのは私一人であった。実演して見せてやれというので、進み出て後ろ向きに座ると、その格好がよほど意外であったのか再びおおっとどよめきが起こった。ドアの外に鈴成りになって、隊員たちは目をみはっていた。

当時の自衛隊はものすごくマイノリティの職場であったから、何をするにつけても隊員たちの程度に合わせて、いちいち懇切丁寧な説明が加えられたものである。たとえば、

「えー、外人はクソと小便が同時に出ないから、便器もこういう形をしておる。したがってその点によく着目し、あらかじめ小便を済ませてからクソをするとよい」

とか、

「いつまでたっても要領をわきまえず、前向きの姿勢でクソをする隊員がおるが、何事も基本動作を正しく身につけねば上達はない。慣れぬうちはりきみも利かぬと思うが、くれぐれも前向きに座ったり、また便座に土足でしゃがんだりせぬように」

ドアに鍵がついていない、と誰かが質問をした。

「ウム。よい質問だ。自衛隊には任務遂行上に不必要なものはない。鍵がかからんと気が散って出るものも出んというやつは、こうしてドアの把手を内側から握っていればよい」

というわけで、その日から新隊員たちの洋式便座との格闘が始まった。

現実は思いのほか悲惨であった。たとえば、自衛隊にはすべてのドアをノックするという習慣がない。幹部室や事務室に入るときも、ドアの外で「○○二士、××班長に用事があって参りました、入ります!」と叫んでやおらドアを開ける。こういう躾(しつ)けは徹底される。

当然、トイレの作法もこれに準ずる。

生活に馴致(じゅんち)してくると、使用中のトイレをいきなり開けてしまっても、「やあ、すまん」「おお」で終わる。相手が上官であれば、「失礼しました!」「よおし」である。それが日常であるから、べつだんどうということもない。

ところが、まだ文化の落差にとまどっている新隊員たちにとって、これは重大事なのである。班長の説明にも拘(かかわ)らず、半数ぐらいの者はどうしてもズボンとパンツを完全脱却して前向きに座っている。躾け通りにノックをせず、いきなりドアを開けてそうした戦友のあられもない姿を目撃すると、ものすごくすまないという気がする。

「あっ、す、すまん……」「い、いや……」である。

毎朝同じことが繰り返される。自分も見られてしまうのと同時に、また他人の姿も目撃してしまうので、それがどれほどみじめな格好であるかは知っている。

そこでやむなく、「後ろ向きに土足で便座の上にしゃがむ」という、悲しい和洋折衷の体勢をみなが思いつくわけだ。これなら姿勢は不安定であるが、装具の完全脱却はしなくてもよいし、とりあえずドアの把手も確保できる。しかしまずいことには、入隊当初の精神的ストレスと慣れぬ食い物のために、みな下痢をしている。事は緊急を要するので、たいていはトイレに駆けこみ、力まかせにドアを引いてしまう。

当然の結果として、和洋折衷姿勢の戦友はひとたまりもなく確保したドアとともに転がり出てしまうのである。

ごくたまに、体が柔らかくて器用なやつが、初志貫徹の前向き姿勢のまま半身をねじ曲げて把手を握っていたりする。この場合はあおのけにどうと倒れる。しかも下半身は完全脱却されている。

「わわっ、大丈夫か!」「クソ!」である。

かくかくしかじか、私たちは四半世紀前の文化と安保の断層で、まこと笑うに笑えぬ労苦をなめさせられたのであった。

やがてそれぞれが便器の正しい使用法を修得し、「やあ、すまん」「おお」と、こともなげに言いかわせるようになったころ、私たちは敬礼の格好もさまになるいっぱしの兵隊になった。

自衛隊で俗にいうところの「シャバッ気が抜ける」とは、こういうことなのである。

今さら家族に自らの悲しい体験を語り聞かせて、洋式便座を悔い改めさせるほどの元気はない。

不本意ながら、これよりクソをする。

(初出/週刊現代1995年3月18日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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