甲冑に身を固めてプレー? 槍投げでコースを回る? 一方、1969年には聖パトリックの祭典を盛り上げようと、アイルランド・アマ選手権の覇者、バシー・ダースが新聞紙上で挑戦者を募ったことがある。 「聖パトリック様は、莞爾とし…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。第17回は、平凡なゴルフは飽きたとばかりに、一風変わったプレーに挑んだユニークな先人たちを紹介します。
夏坂健の読むゴルフ「ナイス・ボギー」その17 変態のすすめ
軍の完全重装備でプレーして100を切れるか?
1957年、悠久のゴルフ史の中でも、およそ前例のない奇妙なクラブ対抗戦が行われた。
かつてイギリスからオーストラリアに移民した一族の中に、折り紙つきのゴルフ狂がいた。彼は事業に成功、メルボルンにコースまで建設すると、故郷の名を借りて、チェルテンハム・ゴルフクラブと命名したのである。1956年、旅行中のイギリス人がこの名称に気づいて立ち寄り、それが縁となって本家チェルテンハムにあるコッツワルド・ヒルズGCと兄弟コースの縁が結ばれた。
「さっそく、親善試合でも開催しようではないか」
双方から声があがったのはいいとして、何しろ遠すぎる。二の足を踏んでいるとき、会員の1人が素敵なアイデアを提供した。
「お互い、同ハンディの選手を12人揃えて同じ日にマッチプレーを行う。経過は電話で確認し合って決着をつけようではないか」
まだ衛星回線のない時代、電話が最速の連絡手段だった。さっそく取り決めがなされたあとの2月12日、遠く離れた2つの国で、24人の選手による「相手の見えないマッチプレー」が行われた。その日、イギリスでは風雨が強く、オーストラリアでは快晴だった。ゲーム開始直後から掛けられた電話の総数が175本、受話器から煙が出て不思議な騒ぎが始まった。ストローク数が頻繁に告げられ、終わってみるとイギリス側の辛勝、わずか2アップの差だった。ゴルフは紳士と淑女のゲーム、欺瞞などありえないからこそ大西洋、インド洋をまたいでの試合も可能となる。
さて、人は平凡に飽きるのが宿命、ゴルフでも風変わりな世界に足を踏み入れる者が少なくない。たとえば1942年、イギリスのロイヤル・セントジョージスの近くに駐屯していた陸軍第6師団のトーマス・ファーラー軍曹は、平凡なゴルフに飽き足らず、仲間に奇妙な賭けを持ちかけた。
「明日の夕方、俺は完全重装備で1番ホールからスタートする。18ホールを100打以内で回るつもりだ。そこで部隊の諸君に賭けを申し入れたい。果たして100打以内にホールアウトできるかどうか、もちろん俺には勝算がある。賭け金はいくらでも受けよう」
イギリス軍の重装備は西欧諸国の中で最も軽量と言われるが、それでも小銃、弾薬、短剣、食料、寝袋、水筒など、合計8キログラム以上あったと言われる。軍曹が出した条件は一つ、
「ショットに際して、小銃だけは地べたに置かせて欲しい」
ところが銃は兵士の命、地面に置くなど論外と全員から袋叩きにあって、文字通り完全重装備のままスタートすることになった。彼はハンディ9の腕前、部隊対抗戦では第6師団のキャプテンもつとめただけあって、最初のうちこそ呻吟する場面も多かったが、やがて慣れるに従い、中盤では3ホールもパーを取ったというから大したものである。ロイヤル・セントジョージスといえば、かつてバーナード・ダーウィンが次のような悪態をついた過酷なコースとして知られる。
「ここは、コースの4分の3がアンプレヤブル・ライである」
つまり、軽装でプレーしてさえ滅多にパーが取れない難コース。ところが偉丈夫で知られた彼は、敵前上陸の勢いで突進すること2時間余り、なんと「94」でホールアウトしてみせた。軍曹が獲得した賞金は軍事機密とされるが、一説によると新車2台が買えるほどの大金だったといわれる。
甲冑に身を固めてプレー? 槍投げでコースを回る?
一方、1969年には聖パトリックの祭典を盛り上げようと、アイルランド・アマ選手権の覇者、バシー・ダースが新聞紙上で挑戦者を募ったことがある。
「聖パトリック様は、莞爾として受難に立ち向かったお方。そこで小生も17世紀に使われた本物の甲冑に身を固め、スクラッチにてお相手申し上げる。ただし、教会への献金として対戦希望者には30ポンドを申し受けたい」
この挑戦状に対して、アイルランド国内はもとより、イギリス、アメリカからも数十人の猛者が応じたというから、国籍問わずゴルファーは髭の生えた子供、微笑ましい限りである。
当日、バーンムースの1番に現われたバシー・ダースのいで立ちは17世紀の甲胄姿、兜の窓から微かに目玉こそ覗けるものの、いざアドレスに入った瞬間、くぐもった悲鳴が聞こえた。
「なんとかしてくれ、まったくボールが見えない!」
覗き窓を広げるわけにもいかず、相手の了解を得て兜なしのゲームに臨むことになった。それでも関節の部分が動かず、腰も回らず、重量10キロの甲冑は空きカンを引きずる新婚の車に似た騒音に満ちて、歩くことさえままならなかった。その日の対戦相手はアイルランドのモックストンに住む船乗りで腕力も強く、途中の6番、350ヤードで1オンを果たして周囲のド肝を抜いた。バシーも汗まみれになって健闘したが、どうにもクラブがうまく振れない。それでも14番まで粘ったというから大したものである。ゲームが終わって脱いだ甲冑の底には4リットルの汗が溜まっていたと記録にある。
「ゲームには負けたが、その翌日、私の身に奇蹟が起きたのだ。非力な私は飛距離よりアプローチが勝負だった。ところが翌日、いきなり30ヤードも飛距離が伸びてクラブ選択にうれしい悲鳴をあげる始末。考えるに、甲冑の重さがスウィングの改善に役立ったらしい。もちろん、これも聖パトリック様の贈り物と考えている」
さて、風変わりな試合といえば、1913年にイギリスのモレーで行われたJ・マッキンレーとS・ルポールの対戦が極めつきだろう。マッキンレーは通常のクラブとボールでゲームに臨んだが、一方のルポールは欧州陸上選手権の槍投げのチャンピオンとあって、手にしたのは一本の槍だけ。まさかカップの中に槍を突き立てるわけにもいかず、ホールアウトはカップを中心に直径5ヤードの円を描いて、その中に槍が刺さればよしと申し合わせた。2人は日曜の早朝、人目を避けるようにしてスタートした。マッキンレーは次のように述懐する。
「それは実におかしな光景だった。何しろ彼はティグラウンドの後方から槍をかざして走り出すと、ティマークぎりぎりの場所でエイッ! 気合もろとも彼方に槍を投げるわけだ。さすがチャンピオンだけあって狙いたがわず、ことごとくフェアウェイの真ん中に飛び去り、突き刺さった。次にその場所をマークしておいて助走、投擲、グリーンを狙うわけだが、もしカップの円内に入らなかった場合、もう一度グリーンの外からやり直すのがキマリだった。彼は数ホールで槍投げゴルフをマスターした」
ティショットならぬ第1投はいいとして、問題はグリーンの円内に槍を突き立てるアプローチが思うにまかせず、結局5アンド4で本物のゴルファーに打ち負かされてしまった。
ところでゲーム終了後、通報によって駆けつけたクラブの理事に大目玉を食らったのは当然だが、神聖なコースに槍を突き立てて無事に済むはずもなく、さらに数日後、会員のマッキンレーに退会処分が下された。
変態遊びが高くつくこと、どこの世界でも同じ話よ。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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