浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎が自身の“ハゲ遍歴”を振り返って気付いた「堂々たるハゲ美」を守るために必要なこと

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第80回は、「正々堂々について」。

みなの視線が前頭葉に集まる

おそろしいことに気付いてしまった。

多忙をきわめたこの1ヵ月の間に、ハゲがかつて前例を見ぬほど一挙に進行したのである。

愕然として鏡の前を離れ、このところあちこちに出ずっぱりのグラビアを改めた。

まちがいない。

書斎の畳に、各誌に掲載されたわが肖像写真を発行日順に並べ、じっくりと観察してみれば、その急激なる進行は明らかであった。

通常、ハゲというものはきわめて緩慢に進行する。もちろん私の場合も、あるとき一気に毛が抜けたなどという四谷怪談のようなことはなく、鏡を見ながら(おお、だいぶ進んだな)と言える程度のプロセスをたどって、今日のハゲに至っているのである。

しかしこのたびに限っては、まちがいなく「一気にきた」という感じがした。

折しも昨日、一昨日と引き続き都内でサイン会があり、久しぶりに担当編集者のみなさんと会った。私の顔を見なれているはずの彼らの視線が、どうも怪しい。おしなべて誰もが、挨拶するときに私の目を見ないのである。視線は10センチ上にずれている。

「やあ、瘦せましたねえ、浅田さん」

と、みんなが言った。しかしその視線は明らかに私の面ざしに向けられてはおらず、前頭葉を見つめていた。まさか「やあ、ハゲましたねえ、浅田さん」とは言えぬであろう。

真実をありていに語ることのできぬ彼らの心中は、察するにあまりある。

ところで、私は現在2種類の増毛剤を使用している。

ひとつは中国で買い求めた「章光101・Bタイプ」で、ひところ一世を風靡した「101」の最新モデルである。

なにしろその卓効によって最盛期には1瓶2万円のプレミアム価格がつき、ニセモノまで出回ったというほどの妙薬である。もちろん私の使用しているものは「北京章光毛髪再生精聯合総廠」で製造された正真正銘の逸品。

もう1点は、私の中学校の同級生で、成城にて皮膚科を開業しているハゲの権威S博士が、私個人のために特別調合してくれた「アサダ・スペシャル」である。

こうした贅沢な薬品をそれぞれ昼夜2度にわたり使用しているにもかかわらず、一気にハゲたというのは尋常ではない。もし拱手して成り行きに任せていたならば、いったいどのような有様になっていたのであろうか。

俗にハゲは決定的な遺伝によるとよく言われるが、私に限っていうのならそれは噓である。

祖父は白髪、父は多少薄かったがそれでも70歳で亡くなるまで十分な余髪を保っていた。親族にハゲは1人もいない。しかし何という不条理か、私と兄だけが鮮やかにハゲたのである。

もともとは鬱陶しいほどの総髪であった。20歳を過ぎたころ、こめかみのあたりがややスダレ状になり、ほどなく分け目のあたりの生え際が上がり始めた。

前方から後退するのと同時に、頭頂部が薄くなり始めたのは30歳前後であった。しかしこのころまでは何ら不都合は感じなかった。それぐらい生来の毛髪が豊かだったのである。セットするのに手間がかからなくてよい、などとタカをくくっていた。

だがまずいことには、頭髪は決して均等に薄くはならない。額の後退と頭頂からの拡散によってハゲは進行するので、まずトレードマークのリーゼントヘアがセット不能になった。

「スーパーハードいちく分け」との苦闘の日々

で、30なかばごろから、やむなく「横分け」の髪形にモデル・チェンジをした。正しくは、「した」のではなく床屋にそうされちまったのである。

そのときの屈辱感はいまだ忘れ難い。要するに分け目をやや下にし、側頭部の豊かな髪をグイッと頭頂に回したのである。

それでも分け目の位置は「8分2分」ぐらいであり、さして違和感なく頭頂のハゲをカバーすることができたので、苦肉のリーゼントよりはマシな感じがした。

しかしほどなく、「8分2分」は「9分1分」となった。俗に言うところの「いちく分け」である。

これは見た目も悪いが、日常生活に不自由があった。たとえば洗髪の折などは、片方の側頭部の髪だけが顎に届くほど異様に長くなっているので、鏡を見たとたんてめえで仰天した。獄門首のようであった。

毎朝のセットが、また難しい。どうするのかというと、まずハードタイプの整髪料で「いちく分け」の基本形を作り、ポイントになる毛先をチックで固定し、さらにスプレーで全体を固める。このスプレーはなまなかのものでは用をなさない。いろいろと試行錯誤の末、私が常用していたのは「VO5ヘアスプレイ・スーパーハードタイプ」という代物で、これはただものではなかった。スプレーというより接着剤に近い。整髪後に掌で触れても、帽子を冠っているような手触りであった。

つまり、風や衝撃等で突然白昼の獄門首にならぬためには、そのようにガチガチの固定を施さねばならぬのであった。

だがしかし、男の人生に「完全な攻撃」はあっても「完璧な防御」はありえない。

時として台風、驟雨(しゅうう)、高層ビル直下の突風等によって、私の完璧な防御はあえなく破壊された。

人間の性格にしたって、剛いやつは脆(もろ)いのである。お堅い女ほど、落ちたあとは怖いのである。

で、私の「スーパーハードいちく分け」は、いったん突風等によって壊れるとどうなるかというと、バリッと音を立てて割れ、絶対修復不可能な形になってしまうのであった。この状態を図解できないのはまことにもどかしいが、頭の形をした髪のかたまりが、側頭部にもう一個並列されるのである。

これは「脱げたカツラ」では決してない。「帽子」ともちがう。たとえば毛髪でできた巨大な四角いサイコロが、ハゲ頭の隣にぶら下がるのである。しかもスーパーハードスプレーの剛性はなまなかなものではないので、バネじかけのように元には戻らず、冠(かぶ)せ直すことも不可能、いったんこの悲劇的状況になると、崩落した髪をずっと手で押さえ続けていなければならないのであった。

とりあえず強い力で押さえたまま、銭湯かサウナを探す。応急措置はできないので、整髪料等をすべてシャンプーで洗い落とし、再び素(す)の状態から整髪し直さねばならぬのであった。「整髪」というよりも「工事」であった。

私のこうした苦労は30代の終りまで続いた。

40の声を聞いたころ、知り合いの美容師が店を持った。開店の祝いに行ったところ、名人の誉れ高い彼はじっと私のヘア・スタイルを見つめ、少しカッコよくしてやるから座れという。

美容院でカットをするというのは、私たちの世代では常識にかからない。だが、もしやカット・チャンピオンのこいつなら、髪を生やすことは無理にしろ、毎日1時間もかかる「いちく分け」の地獄からは解放してくれるかもしれぬ、と思った。

「理想のハゲは?」

と、チャンピオンは訊いた。私はすかさず、私の理想とするハゲである「ジャック・ニコルソン」の名を挙げた。

「オーケー。任せておけ」

と、チャンピオンは肯いた。

かくてその日から、私の現在に至るヘア・スタイルは始まったのである。一見してただのオールバックのようであるが、実は精妙なカットが施してあり、ジャック・ニコルソンとは言わぬまでも、「堂々たるハゲ美」であると信じている。

要するに、私がこのところの急激なハゲ進行に愕然としたのは、この「堂々たるハゲ美」にすら危機を感じたからなのである。

あきらめてはいけないと思う。装うことを忘れたら男は醜くなる。

正々堂々と生きることにこそ、努力は必要なのだ。

(初出/週刊現代1997年9月6日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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