浅田次郎の名エッセイ

18歳だった浅田次郎が見た決起直前の三島由紀夫との記憶

自衛官となって彼の亡霊に会う 事件から数日が経って出版社を訪れたとき、編集者は嘆きながら、奇しくも彼が担当して上梓された「英霊の声」を私にくれた。反古(ほご)になった約束のかわりに、一巻の奇怪な小説が私の手に托されたので…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第86回は、「三島由紀夫について」。

われらの時代の知的シンボル

今年もまた彼の命日がめぐってきた。

あれは昭和45年11月25日のことであったから、はや四半世紀の歳月が経とうとしている。存命であれば69歳(2023年11月に存命ならば98歳:編集部注)になる彼の、老いた姿やなしたであろう業績が、どうしても想像できないのは、やはりあの日あの時に死すべきさだめだったからなのだろうか。

──てなこと考えながら、原稿を督促にきた新卒編集者に、

「ああ、きょうは三島の命日だねえ」

と、しみじみ言ったら、一瞬キョトンとして、

「やっ、そーでしたか。そりゃお忙しいところすみません」

「いや……だからどうというわけじゃないんだがね……」

「そーですか。浅田さんのご実家はミシマですか。実はボク、ヌマヅなんですけど──」

みなまで聞かず、振り向きざまに必殺の回し蹴りをくれた。手かげんしたつもりだったが、前任者から受け身のコツを聞いていなかったとみえて、新人は書棚まで吹っ飛び、諸橋大漢和の角に頭をぶつけて昏倒した。

呆然自失している青年を尻目に、私はこの原稿を書き出したのである。

彼が私の暴挙にどれほど衝撃を受けたかは知らんが、あの日私が受けた、世界中がまっしろになるような衝撃とは較べようもあるまい。

三島由紀夫はわれらの時代の知的シンボルであり、同時に知的アイドルであった。つまり深く研究するにしろ、うわっつらを鑑賞するにしろ、どうしてもわれらの青春とは切り離すことのできないほど、大きな存在であった。

彼は世代から言えば明らかな戦後派に属するのにも拘らず、文学史的には戦前の文豪巨匠と同位置にあった。つまり、「吉行・遠藤・三島」ではなく、「谷崎・川端・三島」と言った方が収まりが良かった。

死してのちそう定まったのではない。生前からそうであったのだから、たいしたものだ。

私がその日をとりわけ衝撃的に受けとめたのは、「面識」があったからである。

ほんの2メートルの距離で目が合った

三島由紀夫は45歳で、私は18歳であった。ということは、私はたぶん、生前の三島由紀夫と会った最年少の現役業界人だろうと思う。

出会いはこういうものであった。

私は高校生の時分からセッセと小説を書いては、あちこちの出版社に持ちこんでいた。こういう図々しさ身勝手さは、42歳の今も変わらない。

たまたま神田にある大手出版社の奇特な編集者が、私をたいそう可愛がってくれた。世の中の書物という書物を、すべて読みつくしているのではないかと思われるほどの、立派な方であった。その編集者が三島由紀夫の担当だったのである。で、「近いうちに三島先生のお宅に伺おう。紹介するから」という有難いお誘いをうけた。

欣喜雀躍である。あの三島由紀夫と会えるのだ。私は天にも昇る気持で、添削をしてもらったぶ厚い原稿の束を小脇に抱えたまま、夕まぐれの街をさまよい歩いた。何だか自分の未来が約束されたような気分だった。

そしてその帰途──偶然では説明のつかぬことが起こったのである。

ニタニタとしながら歩き呆けた私は、水道橋の交差点に立っていた。どこをどう歩いたものか、なぜそこにいたのかはわからない。

信号を待ちながら、ふとビルの半地下のガラス窓を覗きこむと、すぐ足元に三島由紀夫本人がいたのである。記憶によれば、思いがけずに小さな体の、そして異様なほど顔の大きい人物であった。

そこは後楽園のボディビル・ジムで、彼は長椅子に仰向いたまま、バーベルを持ち上げていた。路上から覗きこむ私とはほんの2メートルの距離で、私たちは確かに目が合った。

その一瞬の彼の表情を、私は克明に記憶している。ものすごくイヤな顔をしたのである。

彼はサッとバーベルを支柱に戻し、立ち上がってもういちど私を睨み上げ、スタスタと去ってしまった。そしてジムの隅で誰かと立ち話をしながら、こちらに目を向けて苦笑した。

後から思いついたことだが、そのとき私は返却された200枚の原稿の束を、むき出しのまま抱えていたのだった。おそらく彼は、彼の居場所を訪ねてやってきた青臭い文学少年だろうと勘違いしたにちがいないのである。

ほんの一瞬の出来事であった。私の言う「面識」とは、つまりこのことである。数ヵ月の後に(いや、数日後だったかもしれない)、三島由紀夫は死んだ。編集者との約束も、ついに果たされなかった。

自衛官となって彼の亡霊に会う

事件から数日が経って出版社を訪れたとき、編集者は嘆きながら、奇しくも彼が担当して上梓された「英霊の声」を私にくれた。反古(ほご)になった約束のかわりに、一巻の奇怪な小説が私の手に托されたのであった。まったく実現しなかった約束の代償のように、私はそれを受け取った。

ほどなく編集者は会社を罷(や)め、私の希望の窓口もそれきり閉ざされた。

その翌年、私が自衛隊に入隊したことと、この出来事とは、一見ものすごく関係があるようで実は全然ない。大学受験に失敗した私はただ食いつめて居場所を失い、全くの思いつきで兵隊になったのである。

朝霞の教育隊で基礎訓練を受け、3ヵ月後に日本中のどこへ行っても良かったのだが、なりゆきに任せていたらなぜか市ケ谷に配属された。三島由紀夫が決起をうながしたという、あの連隊である。

営内班長は親しく三島の薫陶を受けたという人物であり、ことあるごとに彼の人柄を語り、嘆いた。そういう遺されたシンパが大勢いた。私は2年の間、ずっと彼の亡霊と会い続けていたことになる。

けっこう成績の良かった私は、選ばれて連隊長の当番兵になった。正しくは「連隊長伝令」という、たいへん名誉な任務である。

新しく着任した連隊長ドノは、片手が不自由だった。どこに行くにも影のように付き従う私は、物を手渡すときとか、日常の警護の位置にもひどく気を遣った。何かの折にふと、それはかつて連隊長が東部方面総監部の幕僚であったころ、あの事件に遭遇して白刃を掌(てのひら)で受けたためだと知った。つまり、三島事件における自衛隊側の唯一の怪我人なのだった。

また、こんなこともあった。

あるとき、連隊長室に応接セットが払い下げになるということで、同じ駐屯地の中にある東部方面総監部に受領に行った。

大理石の階段を昇り、赤い絨毯を踏んで、私はとうとうあの部屋に入ったのだった。バルコニーからは夕日があかあかと差し入っていたと記憶する。

私は余り深く考えずに、たぶん考えようとはせずに、他の作業員たちと重い、立派な応接セットを運び出した。

連隊長室の清掃は伝令である私ひとりの任務であった。その日の掃除は深夜まで続いた。方面総監室から払い下げられた応接セットは思いのほか汚れていたからである。

消灯ラッパが鳴り、ものみな寝静まった営舎の一室で、私は懸命に立派な椅子の脚にしみついた薄黒い汚れを、洗剤で洗い続けたのだった。

──いま、我に返った新人編集者が、おそるおそるコーヒーを運んできた。

「あれっ、浅田さん。ナニ書いてるんですか」

と、不本意そうに言った。学習効果があがって、やや半身に身構えている。首を絞めるかわりに、この原稿を読ませてやろう。

三島由紀夫は、彼の否定した戦後社会を生き続けることに「罪の意識ギルテイ・コンシヤス」を感じていたという。

もしそれが彼の偉大な生涯を自ら閉ざす理由であったとするなら、私は彼の魂に対して、それはないだろう、と言いたい。なぜなら私は、彼の手から托された一冊の「罪の意識」とともに、私自身の「罪の意識」をも背負って生きねばならないのだから。

あの日、半地下のジムのガラス越しに三島由紀夫を目撃した私は、「罪の意識ギルテイ・コンシヤス」を知らぬ、18歳の少年だった。

(初出/週刊現代1994年12月17日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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