バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第86回は、「三島由紀夫について」。
われらの時代の知的シンボル
今年もまた彼の命日がめぐってきた。
あれは昭和45年11月25日のことであったから、はや四半世紀の歳月が経とうとしている。存命であれば69歳(2023年11月に存命ならば98歳:編集部注)になる彼の、老いた姿やなしたであろう業績が、どうしても想像できないのは、やはりあの日あの時に死すべきさだめだったからなのだろうか。
──てなこと考えながら、原稿を督促にきた新卒編集者に、
「ああ、きょうは三島の命日だねえ」
と、しみじみ言ったら、一瞬キョトンとして、
「やっ、そーでしたか。そりゃお忙しいところすみません」
「いや……だからどうというわけじゃないんだがね……」
「そーですか。浅田さんのご実家はミシマですか。実はボク、ヌマヅなんですけど──」
みなまで聞かず、振り向きざまに必殺の回し蹴りをくれた。手かげんしたつもりだったが、前任者から受け身のコツを聞いていなかったとみえて、新人は書棚まで吹っ飛び、諸橋大漢和の角に頭をぶつけて昏倒した。
呆然自失している青年を尻目に、私はこの原稿を書き出したのである。
彼が私の暴挙にどれほど衝撃を受けたかは知らんが、あの日私が受けた、世界中がまっしろになるような衝撃とは較べようもあるまい。
三島由紀夫はわれらの時代の知的シンボルであり、同時に知的アイドルであった。つまり深く研究するにしろ、うわっつらを鑑賞するにしろ、どうしてもわれらの青春とは切り離すことのできないほど、大きな存在であった。
彼は世代から言えば明らかな戦後派に属するのにも拘らず、文学史的には戦前の文豪巨匠と同位置にあった。つまり、「吉行・遠藤・三島」ではなく、「谷崎・川端・三島」と言った方が収まりが良かった。
死してのちそう定まったのではない。生前からそうであったのだから、たいしたものだ。
私がその日をとりわけ衝撃的に受けとめたのは、「面識」があったからである。