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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第85回は、「恩人について」。

幼い私にとって、あらゆる美の伝道者だった

Nさんは20歳の高校1年生だった。

私が中学に入学したとき同じ学園の高等部の1年生で、私が中学3年になっても高校1年生のままだった。

さまざまの人の恩を享(う)けて44年を生きてきたが、現在かくある私の恩人を1人だけ挙げろと言われたら、私は迷わず師よりも親よりも、このNさんの名を挙げねばならない。

落第につぐ落第で、1学年に1色と定められていたバッジの色がぐるりと一回りしてしまったNさんは、学園の有名人だった。

真黒なサングラスにサンダルばきという異様な姿で、適当な時間に登校し、適当な時間に下校する。都内でも有数の進学校には、いわゆる「落ちこぼれ」を救済するというカリキュラムはないので、Nさんは自由なのだった。

Nさんは登校すると図書館にこもって読書をした。そして文学に心得のある教師を訪ねて質問をし、あるいは文章の添削を受け、放課後は長年在籍しているブラスバンド部で、クラリネットを吹いた。

私との出会いもクラブ活動だった。私のパートはトロンボーンだったが、クラブの生き字引のようなNさんは新入部員の指導役で、吹奏楽の基礎をみっちりと教えてくれた。言葉少なで要領を得ない人だった。しかし楽典にはたいそう詳しく、私は教師の教えてはくれない音楽の基礎理論を、Nさんの不器用な説明から知ることができた。

練習の終わったあと、Nさんがペニー・グッドマンの真似をして吹くクラリネットは、うっとりとするぐらい哀愁に満ちていた。

中学に入ったとき、私は小説家になりたいと思った。だが、それは志と呼べるほどのものではなく、たとえばジェット・パイロットになりたいとか、お巡りさんになりたいとかいうのと同じ、漠然とした少年の夢だった。

図書館に通ううちに、Nさんと親しくなった。私が借り出そうとする文学書の貸出表には、たいていNさんの名が書かれていた。

小説家になりたいと打ちあけたのは、ほの暗い書庫の中だったと思う。

ふうん、とNさんはサングラスをはずして、私の顔をしげしげと見つめた。私は音楽のことなら何でも知っているNさんを尊敬していた。本をたくさん読んでいることで、なお尊敬していた。

こんど僕の書いた小説を読んでくれますか、と言ったように思う。するとNさんは苦笑して、俺もおまえもまだ小説を書くのは早いんだよ、今はできるだけ読んでおくんだよ、というようなことを言った。

ひとつだけ、はっきりと記憶に残る言葉がある。

「俺は小説家になるんだ」

と、Nさんは言った。なりたい、というのではなく、たしかにそう言った。

Nさんは学校のそばのアパートに独り住まいをしていた。実家は広尾あたりの裕福な家であったから、わざわざアパート住まいをしていた理由は知らない。

文学書と原稿用紙でうずめつくされたその部屋に、私は入りびたるようになった。私はその部屋で、読めと言われたものを読み、写せと言われた小説を原稿用紙に書き写した。中学の3年間、放課後と週末のその生活は、私にとって学校での学問よりもずっと意味が重かった。私はNさんの興味の赴くままに、鷗外を読み、荷風を愛し、谷崎を写し、川端を誦(しょう)した。スタンダールもトルストイもジョイスもプルーストも、みんなNさんの趣味のおこぼれだった。

ときどきコンサートにも行き、オーケストラの美しさも知った。モーツァルトもピカソもゴッホも教わった。Nさんは幼い私にとって、あらゆる美の伝道者だった。

おまえは小説家にはなれないよ、というのがNさんの口癖だった。どうしてですかと聞くと、ただ、おまえには才能がないから、と答えた。

言われるたびにいつもくやしい思いをした。だが、Nさんはつねつねそう言うことで、私の努力を喚起していたのかも知れない。そんな気がする。

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どうしても小説家にならねばと思った動機とは...
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おとなの週末Web編集部 今井
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