「ダイエットについて」
バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第66回。1990年代に流行した謎のダイエット方法に遭遇した作家が、それを契機に考えた人間の美意識について。
謎の布製テープにパニック
ダイエット・テープなる面妖な痩身術が巷(ちまた)に流行している(編集部注/1995年のことです)。
本誌読者の中にはいまだ知らぬ人もいるであろうから、いちおう紹介しておこう。
幅4ミリの布製テープを、手の指にらせん状に巻く。巻き方には詳細な決めごとがあって、体のどこそこの肉を落としたければ、この指とこの指というふうに、完全なマニュアルまで市販されているらしい。
たったそれだけのことで、腹がへこむとか、足が細くなるとか、精密な局所ダイエットが可能だという。
何でも主婦層を中心として爆発的に流行しており、薬局の店頭からは専用スパイラル・テープはもちろん、代用品の絆創膏まで姿を消してしまっているらしい。
古来より健康を害さずに痩せる方法としては、食事制限と運動とが提案されてきたわけであるが、いずれにせよ横着な痩せ方というものはなかった。その点、指にテーピングを施すだけで痩せるというこの術は、効果の如何(いかん)に拘(かかわ)らず画期的である。
私は職業上、他人のいずまいたたずまいを、ジロジロと注視する癖がある。したがって今日の流行をみるずっと以前から、この術の存在に気付いていた。
初めに発見したのは昨秋、東京競馬場においてである。競馬場の馬券発売窓口には、妙齢のおばさんがあたかも羅漢(らかん)のごとき顔をズラリと並べているわけであるが、あるとき彼女らの中にらせん状の指の持ち主が出現し、しかも日を追って増えて行った。
当初私は、それを彼女らの業務に必要な指先の滑り止めか何かだと考えていた。しかしある日、かかりつけの病院の看護婦が、同じテーピングを施しているのを目撃した。小説家の脳は柔軟性がてんでない。思惟するのではなく、思いこむ習性がある。で、そのとき私は、気の毒にこの看護婦さんは、週末には競馬場でアルバイトをしているのかと思った。
だからその後、家人の指に同じテーピングを発見したときは、それこそ腰が抜けるほど愕(おどろ)いた。出る本すべて初版ポッキリなのであるから、苦労はわかる。だとしても亭主が毎週欠かさず通っている競馬場で馬券売りはないだろう。
説諭しようとしたところに高校生の娘が帰ってきた。やあお帰りと言う間もなく私は驚愕した。娘の指にもスパイラル・テープが巻かれていたのである。そういえば、近ごろ土日の外出が多い。どこへ行くのだと訊ねても、そんなことパパには関係ないでしょう、とそっけなく答える。
私の思いこみ頭脳は、たちまち府中競馬場の窓口に母娘がむっつりと並んでいる姿を想像し、パニクッた。
おまけに、心臓病で寝たきりの老母の指にも同じテーピングが施されていた。思わずワッと泣き伏そうとしたのだけれど、待てよ、まさかそれはあるまい、と考え直した。そこに至って私はようやく、ダイエット・テープなるものの実体を知ったのであった。
私は好奇心が旺盛なので、話題性のあるものはとりあえず試してみる。そこで、この原稿を書いている今も、私の左右の指には「腹のヘコむ巻き方」と「四十肩の治る巻き方」が厳重に施されているわけであるが、効果のほどはまだわからない。
ただし、原稿とりの編集者が何だかものすごく苦労人の作家を見るような目をするので、才能を疑われると困るからやめようと思っている。