「学習について」
バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第67回。作家は、ある事件をきっかけに、すべての人に教育が行き渡っても、ちっとも世の中が良くならない理由について考えてみた。
孔子の言ったことに誤りはない
「学習」は、良い言葉である。
この一語にめぐり逢うたびに、私はいつも「論語」の冒頭にある「子曰(しのたま)わく、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや」、という言葉を思い出す。学問をすることの楽しさや意義は、まさにこの通りであろうと思う。
「論語」はそもそも孔子の著作ではなく、その没後300年以上も経ってから、後世の弟子たちによって編集されたものである。したがって内容は極めて体系的な20編に分類されており、それら各編の見出しには、おそらく後世の儒者たちが最重要と考えた一行目の言葉が採用されている。
たとえば、理想の政治を説いた「為政編」は、「子曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰(ほくしん)の其の所に居(おり)て衆星(しゅうせい)のこれを共(めぐ)るがごとし」による。
政治が「道徳」を基本としていれば、社会は動かざる北極星をめぐる天体のように、整然と運行する。まさに至言である。
「里仁(りじん)編」のタイトルは、「子曰わく、仁に里(お)るを美(よ)しと為す。択(えら)んで仁に処(お)らずんば、焉(いずく)んぞ知ることを得ん」による。
人は「仁」、すなわち人間らしい環境の中に、自然に住みつかねばならない。何か他の理由で人間らしくない場所に住む人を、知者とは言えぬ、ということである。
教育のありかたについて語る「述而(じゅつじ)編」は、「子曰わく、述而不作(のべてつくらず)、信じて古(いにしえ)を好む」と、その冒頭に記す。時代に即したオリジナリティなど不要、信ずるべきは古代から享(う)け継がれてきたトラディショナルな形態、と孔子は言う(私はずっとこの言葉に呪われている)。
さきの「学びて時にこれを習う」は、「学而(がくじ)編」の冒頭にあり、すなわち「論語」の第一行目を飾る。いかに後世の儒者たちに尊ばれた言葉であるかが知れる。
たしかに政治が道徳を忘れたときに社会は乱れ、人が仁に里ることを忘れたときにいまわしいバブルの時代が訪れ、古を忘れたとたん、文化も教育も衰弱した。孔子の言ったことに誤りはないと感じる。
同様に、現代を生きるわれわれは、孔子の弟子たちが最も尊んだ「学而時習之、不亦説乎」の訓(おし)えを忘れている。学問することの楽しみを忘れ、ただ立身のためのみにおしきせの教養を身につけ、しかも決して「習う」ことなく、次々と忘れて行く。高度な教育がすべての人々に行きわたっても、世の中が少しも良くはならないのは、たぶんこのせいであろうと思う。
そこで、話は飛ぶ。いや、飛んだように見えて実は飛んではいないので、よく読んで欲しい。
先日、神戸で起こったこんな出来事を、読者は知っているであろうか。