どうしても小説家にならねばと思った動機とは
Nさんは私が中学3年の夏休みに死んだ。北信濃の湖で溺れたのだった。
信州に旅立つ朝、私は新宿駅のホームでNさんを見送った。列車の窓を開けて、そのときもNさんはしげしげと私を見つめながら、おまえは小説家になれないよ、ラッパはうまいから、ピアノを習って音大へ行け、と言った。
いえ、僕は小説家になります、と私は答えた。勝手にしろ、はい勝手にします。笑いながらそんな永訣の言葉をかわした。
ブラスバンド部のキャプテンから、Nさんが死んだという電話が入ったのは、数日後の夜だった。まっしろになった頭の中で、考えたことはただひとつ、小説家にならねばならないという使命だけだった。
葬儀は目白の教会で行われた。ブラスバンドはフルメンバーを揃えて、Nさんの編曲した「錨(いかり)をあげて」を演奏した。Nさんと仲の良かったキャプテンは、タクトを遺影に供えて、自らクラリネットを吹いた。
Nさんの書いた第1トロンボーンのスコアは難しかった。原譜ではトリオと呼ばれる「サビ」の部分に、壮大なトロンボーンの主旋律が用意されているのだが、Nさんがたぶん私のために書いてくれたスコアは、頭から終わりまで、そのユニゾンの連続と言ってもよかった。
部員たちはみな泣いてしまって、演奏はひどいものだったが、私は泣かずに「錨をあげて」を吹いた。
Nさんは小説家になれずに、20歳で死んでしまった。だから私は、このさきどんなことをしてでも、何と引き替えてでも小説家にならなければならなかった。15歳の私は、そればかりを思いつめた。
ところで先日、親しい編集者に「浅田さんは露悪癖がある」となじられた。また別の編集者からも、「近ごろ身の回りのことばかり書きすぎるのでは」、と忠告された。
ごもっともである。内心、深く反省している。かように自慰的エッセイを書いて、読者が喜ぶはずはない。のみならず狭量な性格と資質とを暴露しているようなものであろうと思う。
インタヴューや対談のたびに、私はずいぶんと偉そうなことを言う。活字になって初めて、ああまたこんなこと言っちゃったと、溜息をつく。あるいは、編集者たちを摑まえてしたたかな文学論を吹聴する。おそらく皆さん辟易しているであろうことはわかっている。
それもこれも、Nさんの口癖であった「おまえには才能がないから小説家にはなれないよ」という言葉に、今も呪縛されているからだろうと思う。だからそうしていつも虚勢を張ってしまう。
Nさんは私の書いた作文のような小説を、ただの一度もほめてはくれなかった。だからあれから30年も小説を書き続けて、本がたくさん出版されて、有難い文学賞までいただいても、自分が小説家になったという実感が湧かない。俺は小説家なのかな、などという間の抜けたことをしばしば口にして、編集者たちを笑わせる。
冗談ではなく、本当にそう思っているのである。私が一番ほめてもらいたい人は、とうに死んでしまった。
Nさんに死なれたとき、どうしても小説家にならねばと思った。それがNさんの遺志であると信じた。これほど不純かつ短絡的な動機を持つ作家は他にいないだろうと思う。露悪癖ここにきわまれり、というところか。
きょうは8月15日で、終戦のことを書こうと思って原稿を開いたとたん、まったく私的な文章を書き始めてしまった。活字になればきっとまたみんなに叱られる。
実名を書いても、記憶にとどめている人はご遺族と私ぐらいのものであろうからかまわないと思う。
長崎謙之助さん。僕は音楽家にならずに小説家になりました。明日、取材と称して大文字の送り火を見に行きます。人ごみの中で僕を見かけたら、みんながそうしてくれるように、僕の小説をほめて下さい。一言でいいんです。
(初出/週刊現代1996年9月7日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。