バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第74回は「転属命令について」。
小説家か自衛官か、天職はいずれか?
私の机のひきだしに、一通のふしぎな書類がしまわれている。
26年前に受け取って以来、度重なる転居にも、人生の浮沈にも関係なく、古ぼけた角封筒に収まったその書類は、ずっと私の手の届く場所に置かれている。
昨年の秋に新居を構えたときも、私は旧宅から大事にその書類を抱えて引っ越してきた。新しく購入したイタリー製バブルふうデスクのひきだしに、その書類は収められ、鍵がかけられた。
重要書類である。ただし有価証券ではなく、権利書でも出版契約書でもなく、もちろんラブレターでもない。
角封筒の表には墨痕あざやかな楷書でこう書かれている。
「転属のしおり 第一師団司令部」
受取人は「第三十二普通科連隊第四中隊陸士長」──つまり四半世紀前の私である。
昭和48年春、私は市谷に駐屯する陸上自衛隊に勤務しており、任期満了に伴い除隊するか、任期を継続して永久就職するか悩んでいた。
もともと小説家になるつもりだったのだけれども、世にも珍しき体育会系文学少年であった私は、妙に自衛隊生活が気に入ってしまい、今後どうするべきかと深く苦悩していたのであった。
小説家にはなりたかった。だが自衛官も天職ではなかろうかと考えていた。
当時、自衛隊は隊員の定数確保にやっきとなっていた。それもそのはずで、世は高度成長まっただなか、学生運動の嵐が吹き荒れ、しかも海の向こうではベトナム戦争がたけなわであった。
今とちがって給与も低く、生活環境は悪く、へたすりゃベトコンに殺されるかもしれない自衛官には、まったくなり手がなかったのである。ならば任期満了で除隊する隊員を何とかつなぎ止めておこう、と、そういうことだったのであろう。
中隊の事務長である「先任陸曹」は、懸命に私を説得した。手をかえ品をかえ、あるときは理路整然と説き、あるときは命令口調で怒鳴りつけ、何とか一人の隊員を継続任用させようと涙ぐましい努力をして下さった。
そんなある日、私は連隊本部に呼び出された。一等陸尉の人事班長から、突然こう言われたのである。
「師団司令部に転属する気はないか。師団長からおまえをご指名なのだが」
三十二連隊は第一師団に属する。つまり上級部隊の司令部勤務をせよ、ということだ。
わかりやすく一般の会社でいうなら、支店勤務の営業マンが本社に配転されるようなものである。しかも、社長が名ざしで要望している、という。
第一師団は練馬に司令部を置く、昔でいうならさしずめ「近衛師団」で、三個の連隊ともろもろの後方部隊を擁している。旧軍経験者ならば、近衛師団長が一介の上等兵を名ざしで要求するという事態が、どのくらい異例かつ異常なことかおわかりであろう。
ともあれ大栄転、いや、無上の光栄というべきである。
心当りはあった。その前年、私は連隊長の伝令(つまり秘書あるいは当番兵)をしばらく務めており、会議や演習の折などに師団長ともお会いしたことがあった。
自分でいうのも何だが、私はけっこうバリバリの自衛官であった。お免状もたくさんもらっていた。
会社をやめようかな、と思っていた矢先に本社社長室付の秘書に栄転、というのだから誰でも悩む。
そうこうするうちに話はどんどん進み、新品の半長靴とか制服とかが営内班に届けられ、人々の祝福を浴びた。
そしてついに、「転属のしおり」と題する書類が師団司令部から送られてきたのである。ただし、これは正規の命令書ではない。いわば内定に際して、今後の勤務の内容とか心構えとかが書かれた非公式の書類である。封筒の中には「師団司令部付隊」の肩章までが入っていた。
しかしどういうわけか、いつまでたっても「転属命令」はこなかった。
何となく時間切れの感じで、私は満期除隊を決心した。
いったいどうなっているのだろうと思っても、こちらから聞くのはヤブヘビであろうし、まあこれも運命というものだろうと納得したのであった。
先任陸曹は最後まで私をあきらめなかった。さんざイヤミを言われ、恩知らずと罵られ、あるいは恫喝された。だが、私は二等陸士から叩き上げた、抜群の事務能力を持つその一等陸曹が好きであった。
明日は除隊式という晩、真夜中に人の気配を感じて目覚めると、先任陸曹が私のベッドの足元にぼんやりと腰を下ろしていた。闇の中で酒の匂いがした。
「ま、頑張れ。おまえなら大丈夫だ」
そんなことを言ってくれたと思う。