未完の「転属命令」は解除された
「転属のしおり」は以来四半世紀、度重なる転居にも、人生の浮沈にも関係なく、常に私の手の届く場所にあった。
思い出の品、と言うべきだろうか。いや、除隊してこの方、私はその中途半端な書類に呪縛され続けてきたのかもしれない。
自衛隊が大好きだった。勲(いさお)しなき軍隊ではあるが、少くとも私は、かつて自衛隊員であったことを矜(ほこ)りとして生きてきた。頑健な肉体、不屈の闘志、整理整頓、時間の厳守、自律と自省。二年間の間に得たものは計り知れない。
先日、まったく突然に「陸上自衛隊第一師団司令部」から電話がかかってきた。発信者はY一佐。昔でいうなら師団の高級参謀である。
受話器を握ったまま、私は思わず直立不動になった。一瞬、惑乱した。まさか今ごろになって「転属命令」じゃなかろうな、と思った。そう思ってしまうほど、四半世紀の間、宙ぶらりんの師団命令は私の心にひっかかっていたのである。
電話を切った私は、まさにルバング島に戦後長く潜伏していた、小野田寛郎少尉の心境であった。
もちろん「転属命令」ではなかった。OBとして、師団司令部で講演をして欲しいという依頼であった。
参謀殿は丁重に誘って下さったのだが、私にとっては拒むことのできぬ「命令」であった。
かくて私は、本日ただいま第一師団司令部での講演をおえ、公用車に送られて帰宅し、この原稿を書いている。
一日中、ガチガチに緊張していた。なにしろ師団長以下幹部、および私の原隊である市ヶ谷連隊からも正装の隊員たちが大挙して来ており、会場となった練馬駐屯地の講堂を埋めつくしていたのである。
すでに退職されたかつての中隊長も来て下さり、永久就職した何人かの同期生も、私を迎えてくれた。壇上で全員からの敬礼を受けたとき、恥ずかしい気持がした。除隊の前夜、ベッドの足元にじっと座っていた先任陸曹のシルエットが思いうかんだ。
「ま、頑張れ。おまえなら大丈夫だ」
それは、自衛隊が去りゆく兵士に向かって送ってくれたエールであった。たぶん私はその一言に支えられて、食えぬ時代を何とか食いつなぎ、なれるはずのなかった小説家になれたのだろう。
憲法も思想も世論も、私にとってはどうでもよい。かつて自衛官であったればこそ、今日まで生きてくることができた。今も地下鉄の車内で昏倒してしまうまで、頑張って原稿を書くことができる。体力を過信しているのではないと思う。矜りがあるから、頑張れる。
第一連隊の隊舎を見学させてもらった。設備はすっかり様変わりしたが、直立不動で迎えてくれた隊員の表情は、あのころの私のままであった。
若き師団長は私の心にかかっていた未完の「転属命令」を解除して下さった。書類はようやく思い出になった。
連隊武器庫には、かつて私が使ったものと同じ六四式小銃が整然と並んでいた。
磨き上げられた小銃や銃剣の、アマニ油の匂いが胸をうがった。
(初出/週刊現代1997年3月8日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。