バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第78回は、「ふたたび選良について」。
自分がタダメシを食わせてもらっている理由がわからないバカ
「選良」とは、多くの人々の中から選び抜かれた、すぐれた人物のことである。
今日わかりやすい外来語に言いかえれば、「エリート」ということになろう。彼らの中には生まれついて選良たる宿命を背負っている者もおり、学校や職場での努力の結果、そう呼ばれるようになった者もいる。
ただし、選良が偉いわけではない。彼らが偉人となるかどうかは、彼らの持つ権威と実力とを正当に発揮し、偉業と呼ばれるだけの業績を残すかどうかにかかっている。
そして社会に貢献する偉業というものは、長い時間をかけて達成されるのだから、ほとんどの場合は「遺業」となり、業をなした偉人が存命中、もしくは在職中に「偉人」と呼ばれることはない。
偉い人物が周囲から尊敬され、その敬意の証しとしての供応を受けるのはしごく当然である。しかし、ただの選良が偉人と同じ扱いを受けるのは理に適かなわない。
こんな簡単なこと、つまり供応を受ける理由がわからない選良に、むろん偉業などなしとげられるはずはない。
自分が他人様からタダメシを食わしてもらっている理由がわからない人間は、バカである。学校でも職場でも選良と呼ばれてきたのかもしれないが、やっぱりバカである。
野村証券の社長という人は記者会見の席上、元役員らが贈賄の疑いで逮捕されたことについて、「本人たちに賄賂性の認識がなかった。接待をすることと、主幹事をとることの因果関係は薄いと思う」と述べた。
こちらもバカである。賄賂性の認識がまったくない接待とは、タダメシを食わせているということで、つまり「理由なき供応」であろう。
理由もなく他人様にタダメシを食わせるのはバカのすることである。つまり社長は公然と、「われわれは悪いことはしていないけれどバカなことをしています」と言ったのである。やっぱりバカである。