今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その23 崇高なる慕情
彼女と対戦するためなら地の果てまでも
恋の対象は、何も異性に限った話ではない。たとえばグレナ・コレットが生涯かけて恋焦がれた相手は、女性ゴルフ史上「最強のアマゾネス」、ジョイス・ウェザレッドだった。グレナは彼女に逢いたいがため、まだ空路が開設されない時代、前後六回も船便で渡英したほどである。
といっても誤解は禁物、彼女の動機は同性愛と違って、女性が女性に惚れ込む希有なる例、崇高なものだった。自叙伝によると、
「好敵手に挑戦し続けること、人生にこれ以上の贅沢があろうか。私が生涯にわたって恋焦がれた偉大なるゴルファー、ジョイスと対戦するためなら、たとえ灼熱のサハラ砂漠、あるいは凍てつく真冬のアラスカ、どこであろうと私はクラブを持って馳せ参じるつもりだった」
この一文でもわかる通り、彼女の思い込みたるや尋常ではない。逆に考えると、ここまで惚れ込まれたジョイス・ウェザレッドも並の女性ではなかったことになる。女同士は友情が育ちにくいと言われるが、この2人に限っては例外である。
のちのハリウッドから映画出演の依頼が舞い込んだほど、グレナは愛らしかった。1903年、ニューヨークに生まれた彼女は、14歳のとき初めてゴルフと遭遇する。それもテニスコートに行く途中、父親がゴルフ練習場にいてクラブを振り回す姿を目撃したのが発端だった。
「パパ、私にも打たせて」
「簡単そうに見えて、実は世界一むずかしいのがゴルフ、真っすぐ飛ぶまでに3年かかるよ」
この言葉が、負けず嫌いの彼女を刺激したようだ。人が3年かかるものなら3ヵ月でやってみせる、そう思ったと自叙伝にある。毎日飽きもせずクラブを振る娘の姿に、父親は評判のレッスンプロをつけようと考える。それが天才ジェリー・トラバース選手を育てたアレックス・スミスだった。
身長165センチ、体重55キロ、アメリカ人としては小柄なグレナが、男性ゴルファーにひけを取らない長打力を有したのも、名コーチによる理詰めのスウィング伝授によるところが大きい。全米女子選手権6回優勝の偉業も、常時250ヤードの飛距離を誇ったドライバーあってのことである。
1919年、16歳になった彼女は、ニューヨークの小さな女子競技会に初出場して初優勝。翌20年にはシネコセット選手権に出場して優勝する。
いよいよメジャーに向かっての進撃開始である。22年、2度目の挑戦で全米女子選手権に優勝し、25年には2勝目。その余勢を駆って、かねてから念願の本場スコットランドに遠征する。
「私はジョイスに逢いたかった。たとえ遠くからでもいい、尊敬する彼女の姿が見たかった。もし同じリンクスの上に立てたならば、もうそれだけで満足だった。試合会場のロイヤル・トルーンのパッティング・グリーンで彼女の姿を見たとき、私はうまく息ができなかった」(自叙伝より)
トルーンで行われた全英女子選手権には、世界各地から選り抜きの名選手が結集していた。彼女は出場するだけで満足だといったが、なんと3回戦で両者は対決することになる。
「ジョイスは優雅で落ち着きに満ちた女性であり、言動すべてに余裕が感じられた。ゴルフも同様、ゆったりしたリズムでよどみなくスウィングするが、一瞬の集中力にすさまじいまでの気迫が感じられて、見る者すべてが金縛りになるのだった」(同書より)
ところが、グレナは前半の9ホールで2アップ、予想外の番狂わせと記者たちが騒ぎ始めたのも束の間、後半になるとジョイスが長いパットを奇蹟のように沈めて、女王の貫禄を誇示した。
しかし、グレナとしては彼女と互角に戦えただけで大満足、このときから、生涯にわたっての慕情が芽生えたのである。