世紀の対決に町は空っぽになった
帰国した彼女は、直後に行われた全米女子選手権に優勝して3勝目、アメリカでは無敵の強さを誇ったが、勝って驕らず、敗れて卑下することなく、いつも愛らしく笑い、誰に対しても親切、かつ謙虚であり、ライバルのジョイスまでが自著の中で、彼女の人柄について次のように語っている。
「私がつけた愛称は、『アメリカの愛らしい妖精さん』。あれほど愛らしくて大らかな人には会ったことがない。人生の中で巡り合った最高に可愛い女性」
1928年からグレナの快進撃が始まる。まず28年、バージニア・バン・ウイを破り、翌29年にはレオナ・プリスラーを一蹴、そして30年には姉の仇とばかり血相をかえて挑みかかるバージニアの妹のジン・ウイを返り討ちにして全米女子3連勝、通算6勝目の偉業を達成する。当時の新聞は、「女性版ボビー・ジョーンズ」と書き立てたものである。
かくも頂点まで登りつめてさえ、グレナはゴルフの本場での優勝を夢見ていた。いや、正確には宿敵ジョイスに勝ちたい一心、全米に優勝したその足で練習場に走ったのも、その執念あってのことだった。
1926年、27年と大西洋を横断するが、なぜか準優勝で無名の選手に敗れる不運が続く。ようやく29年、決勝戦で両者ふたたび相まみえることになった。
このとき世紀の対決とあって4万人の大観衆が詰めかけ、セントアンドリュースの町が空っぽになったと伝えられる。あとにも先にもゴルフの聖地が空っぽになったのは2回だけ、もう1回はボビー・ジョーンズが1930年にグランドスラムを達成したときである。
グレナとジョイスの直接対決は、まさにゴルフ史上の一大事だった。
その日は、薄日が洩れる絶好のゴルフ日和とあって、条件は申し分なかった。十分に練習を積んで試合に臨んだ2人だけに、ショットに狂いなく、アプローチの勘も冴えわたり、ボールも小気味よくカップに沈んでいった。
前半の18ホール、なんとグレナは女性に苛酷といわれるオールドコースを、見事アンダーパーでホールアウトする出来栄え、愛らしい表情に朱がさして児戯に興ずる童女のようだったと当時の新聞は書いた。前半6アップのリードは意外な展開だった。
ところが28歳で引退するまで、イングランドだけに限ると33戦全勝、ナショナル大会まで含めると38勝2敗という信じられない強さを誇ったジョイスは、一種、マッチプレーの天才でもあった。
勝負どころとみると執念のパットをねじ込み、相手の気勢をそいでしまう試合運びの巧みさが、いよいよ後半に発揮される。
16番と17番が試合のわかれ目だった。ジョイスは2つの長いパットを沈めてグレナを突き放すと、全英女子選手権7勝目を掌中にする。
試合直後、ジョイスは引退を表明するが、このコメントの中で、もうグレナと一緒にプレー出来ないことだけが寂しいと語った。ジョイスもまた、グレナの一ファンだったのである。
それでも翌年、万が一のカムバックに期待をかけてグレナはイギリスまで出掛けて行くが、ジョイスは現われなかった。
「好敵手に挑戦し続けることは、人生最高の贅沢」、彼女の一言に宿る精神の崇高さに刮目したい。何かにつけ、判で押したように「男女同権」の四文字ばかり口にする女性に、人としての本物の野心があるとは思えない。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。