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ローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧強記の水先案内人が、先人たちの食への情熱ぶりを綴った面白エピソード集。第18話をお送りします。

3つのランクに分けられた「矯声兵」たち

歴史はキノコの魔力を証明した。しかし戦場に同伴した5000人の女たちを前に毒茸に当たって絶命する男たちの数も莫大だった。

♣うまい料理を食べてる真ッ最中にくたばりたいもんだ――マルク・デゾウジェ――

紀元前からこんにちまで、一貫した信仰を集めている強精食は茸(キノコ)である。

孔子や芭蕉も茸にあたって倒れたようだが、美味と猛毒がいつも隣り合わせなところ、茸はフグとよく似ている。

古代ローマ人は、マッシュルームを栽培するように〔アマニテス〕という天狗茸科の茸を作っていた。彼らはトリュフ(松露)を落雷の飛沫と信じ込んでいたし、毒茸の恐ろしさをよく知っていて、茸料理はまず奴隷から与えていた。

ヨーロッパには、絞首台の下にだけ密生するという伝説的な毒茸でマンドラゴールなる奇奇怪々があって、これを食べてあたらない女性は魔女、男性はサタンと相場が決まっていた。

茸信仰の根強さを物語る例としては、十字軍の遠征がある。ご存知の通り、イスラム教の浸透を阻止する目的で第1回目の十字軍が聖地エルサレム奪回のために出発したのが1096年のこと。

ところが軍隊とは名ばかりの組織なき大集団に、なんとその数5000人の売春婦部隊が同行したのである。まったく途方もない数の女たちを集めたものだ。

5000人の売春婦はランクが3つに分けられていた。1頭ずつ馬を与えられたのが指揮官用の女、荷車に相乗りのBクラスは小隊長用の女、そのあとに延々と衣類や洗濯桶を頭にのせたり、背中にくくったりの兵士用の徒歩部隊が続いた。末尾には《商売専用車輛》の幌馬車が何十台か行列を作っていた。

そういえば、戦場に商売女をつれていくのは当たり前という時代がかなり長く続いている。

たとえばアルブレヒト1世だが、神聖ローマの皇帝としてシュトラスブルクに入城した1298年の場合、部隊の最後に約1000人の売春婦を従えていたし、好色で知られるスペインのアルバ公がオランダ遠征をした1567年、騎馬にまたがった400人の高級娼婦と、800人を越える徒歩売春婦が部隊に参加している。

レーモン伯の書簡によると、当時の兵隊が〈攻撃兵〉と呼ばれていたのに対して、従軍売春婦は〈嬌声兵〉というニックネームが与えられ、兵士たちが女に支払う花代は金銭ではなくて、たいていは食糧を持ち込んでいたものらしい。女たちはその食糧を通りすがりの村や町で売っては現金に替えていた。

潤沢に品物さえあれば、一兵卒でも高級な女に話をつけることはできたようだが、むかしもいまも需要と供給の場の商談はメンツとプライドがからんで厄介ごとである。当時の小噺にこんなのがある。

「乾肉2枚にパン3個、これで折り合っちゃもらえないかねエ」

「ふん、この程度じゃ馬車には乗せてやるけど、あとはセルフ・サービスだよッ」

第1回の十字軍遠征は、出発してから帰国するまでに3年を要した。この歳月が当事者たちにとっていかに長いものであったか、それは帰ってきた5000人の女たちがみんな子連れになっていたことでもわかるのである。

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乾茸と生肉しか口にしなかった豪傑...
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おとなの週末Web編集部 今井
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