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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、約30年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第62回。作家が中国取材の折、何の予告もなく紹介された無名の老人によって、学問とは、文化とは何かを教えられた顛末について。

「老師について」

会った瞬間、清らかな空気が漂い出た

北京の胡同(フートン)に李啼平(リーテイピン)先生を訪ねた。

昨年の暮のことである。

李啼平先生、といきなり言っても、読者は誰も知らないであろう。もちろん私にとっても見知らぬ人であった。同行したガイドの女性が、どうしても私に会わせたい人がいると言って、先生に引き合わせて下さったのである。

胡同と呼ばれる北京の路地は、今や近代化の荒波の中で消えつつある。そんな胡同の一隅に、李先生は住んでおられた。瀟洒(しょうしゃ)で清浄な、古い四合院(しごういん)であった。

先生がどういう人であるのか、私は聞かされてはいなかった。だから過密な取材日程の中で、なぜガイドの恩師にあたるというその老学者に会わねばならないのか、正直のところいささか不満であった。

だが、言われるままに訪れた四合院の傾いた門楼(もんろう)の前に立ったとき、私は私がそこを訪ねねばならなかった理由に、何となく気付いた。その家のほの暗い内庭からは、まことにふしぎな、つつましく真摯(しんし)な、あるいは簡潔で清浄このうえない風が、ふんわりと流れ出ていたのである。

寒い夕昏(ゆうぐれ)どきであった。李啼平先生は紺色の詰襟服を着、小さなお体を折り曲げて異国からやってきた突然の来訪者を迎えて下さった。

私はまず、ひとめ見て強い衝撃を受けた。相手の誰であるかを何も知らずに「衝撃を受ける」などという表現は少しオーバーかもしれない。しかしそのとき私は、たしかにわけもなく愕(おどろ)いた。

先生は両手で私の掌を握り、正確な日本語で、「よくおいで下さいました、遠いところ」とおっしゃった。

私はしばらくの間、ぼんやりと先生のお姿に見入っていたと思う。この人はいったい誰なのだろう。おのずと漂い出るこの清らかな空気は、いったい何なのだろう。

「狭いところですけれど、どうぞ」

先生の居室に私は導き入れられた。そこでも私はまた、しばらくの間ぼんやりとしてしまった。

冷たい石造りの部屋。寝台と古い机。小さな卓と椅子。それだけだった。

壁には夫人の遺影が飾られており、卓の上に山盛の林檎(りんご)が置かれていた。来客のために手ずから用意して下さったのであろうか、林檎の皮は不器用に、かつ誠実に剝かれていた。

ガイドが私を紹介した。日本の小説家だとか先生だとか、そういう言い方はやめてほしいと思った。

気恥かしいと思ったとたん、私は自分がぼんやりとしてしまった理由に思い当たった。つまり目の前にいるこの老人は、あたりの空気を染めてしまうほどの偉大な学究なのだと悟った。

それから私は、何もしゃべれなくなった。生来が人前で物おじをする性格ではない。しかしそのときの私は、老学究の小さな体からおのずと漂い出る空気に、まったく怖気(おじけ)づいてしまったのである。

まっしろになってしまった頭の中に、かつて小説を書くために詰めこんださまざまの事柄が甦(よみがえ)った。

李先生は世界中のどこを探してもいない、また歴史上ほかのどの国にも存在しえない、清廉な支那の老学究であった。

背を丸めてとつとつ語り始めた経歴には、毛ほどのてらいもなかった。

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文化大革命によってすべてを奪われた...
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おとなの週末Web編集部 今井
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