文化大革命によってすべてを奪われた
李啼平先生は民国六年、西暦1917年に満洲吉林省で生まれた。
北京の紫禁城(しきんじょう)にはいまだ清の廃帝溥儀(ふぎ)が、民国政府の優待条件を得て暮らしていたころである。先生は長じて北京に上り、日本語と数学とを修(おさ)められた。さらに昭和13年、留学生として日本に渡り、慶応義塾大学で法律を学ばれた。
なぜ専門外の法律を学ばれたのかという私の問いに、先生はこともなげに答えた。
「そのころの中国には、法律が必要でしたから。数学よりも」
日本が大好きだと、先生は話しながら何度もくり返した。しかしそれ以上のことには触れようとしなかった。大好きな日本と母国とが長い戦(いくさ)をしたことについて、語るべき言葉はなかったのであろう。
やがて北京で教鞭(きょうべん)をとっていた先生に、文化大革命の嵐が見舞う。かつて日本に留学し、日本語を話すというただそれだけの理由で、先生は三角帽を冠せられ、「罪状」を記した看板を首から吊り下げられて、晒(さら)しものにされた。財産はことごとく没収され、一家離散の憂き目に遭った。
歳月を経て北京の胡同に戻ったとき、こう思ったそうだ。
ああようやく学問の続きができる、と。
そうした言葉のひとつひとつに、私は胸が詰まった。
ガイドの説明によれば、中国では学者の社会的な地位がたいへん低いのだそうだ。もちろん収入も少く、大学教授だからといってことさら権威があるわけではない。つまり、学問そのものが非生産的行為であるとみなされているがゆえであろう。
しかし、当の先生はそうしたことにべつだんの不満を感じておられるというふうはなく、まったく超然としておられた。漂い出る清廉さのみなもとは、学問の尊厳と、それを希求してやまぬ学者の魂だけなのであろう。
学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。
先生の小さな体を鎧(よろ)っているものはただひとつ、論語の冒頭にあるこの一節だけにちがいない。そして、これほど単純で、これほど鞏固(きょうこ)で、またこれほど美しい鎧を身に纏(まと)っている人物を、私はかつて知らなかった。
先生の清らかな机の上には、東京の大学から送られてきたという分厚い書物が置かれていた。北京語に翻訳中であるという。
「あと5万字、残ってます」
80歳の老学究は笑顔をほころばせて言った。
拙著を差し出すとき、手が慄(ふる)えた。