天は選良たる者に使命を与えた
選良とは、わずかにわれわれと一歩を隔てた者の異名にすぎない。
彼らのある者には天与の境遇があり、またある者には天与の能力が備わっていた。むろん、かつてはその境遇や能力に恥じぬ努力をしたればこそ、彼らは選良となり得たのである。
ではなぜ、公平無私であるはずの天が、彼らにだけ一歩の優位を与えたのであろう。
この答えは簡単である。天は彼らに、使命を与えたのである。彼らはあまたの人々の中から選ばれ、人々の幸福のために尽くすよう、天から命ぜられているのである。選良と呼ばれる者は、その栄光と等量の責任を常に負っている。
今日批判されているところの官僚主導政治のありかたというものを、私はあながち悪いものだとは思わない。
要は官僚たちと、それを取り巻く選良たちの質の問題であろうかと思う。彼らがみな、おのれは選良たる栄光と等量の責任を負っているという自覚を持ってさえいれば、贈収賄にかかわる法律などは不要なのである。
供応を受ける者、供する者の間に「賄賂性の認識」があったかなかったか、そんな話は法律というメカニズムばかりに翻弄される、愚かしい論議にすぎない。
誤解を怖れるのなら、はなから飯など食わねばよい。酒など飲む必要はない。おのれの仕事に自信があるのならば昼日なかに役所を訪ね、思うところを正々堂々と述べればよいのである。もしこういう方法が結果をもたらさないのであれば、この国の選良は簡単な問題すら解けぬバカばかりということになる。
ドロップ・アウトをさんざくり返し、40を過ぎてようやく作家になることのできた私は、世の選良が実は私とわずかな一歩を隔てた者であることはよく知っている。そしてもちろん、ドロップ・アウトしたままの犯罪者たちも、私とわずかな一歩を隔てた者である。
ところが彼ら選良たちは、国民のすべてが実はおのれとわずかな一歩を隔てた者であるということを知らない。
ひたすらおのれを選良と信じ、酒食を供し供されて政(まつりごと)を曲げることさえ、おのれの権利のうちであると考えている。
この愚かしさかげんは、ただおのれの存在に対する無知としか言いようがない。官僚とは何か、あるいは一国の政治経済を左右する大企業の社員とは何かということを、彼らは何も知らない。
自分の存在理由すら知らず、ただ幼児のように供応を貪むさぼり、その快楽にまつわる代償を全うしようとする。
「お小遣いをあげるから、おつかいに行ってらっしゃい」
「はい」
つまり、これとどこもちがわない。
選良とは、多くの人々の中から選び抜かれた、すぐれた人物のことである。しかしまた、多くの人々とわずかな一歩を隔てた者のことである。
必要な認識は、これだけで十分だと思うのだが。
(初出/週刊現代1998年2月7日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。