バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第78回は、「カビについて」。
突然、右の耳から音が消えた!
2年ごし1800枚の長編を脱稿寸前である。
マラソンで言うならスタジアムが見えた感じ、戦で言うなら燃え上がる城門から躍りこんだ感じ、とでもいうか、目に見えるもの耳に聴こえるもの肌に触れるものすべてが、ひどく大げさに感じられる。
こういう緊張感をはなから維持していれば作品はみな良いものになるのであろうが、それでは体が持つまい。
とりあえず、いま膝に乗っているものは虎ではなく猫である。真夜中の窓を揺する音は干かん戈かの響きではなくマロニエの葉音である。廊下の軋みは刺客ではなくトイレに向かう老母である、と自ら言い聞かせつつ文字を刻む。
通常こうした時期にさしかかると体のどこかしらかに異変が現れる。多くは歯痛、下痢、発熱、偏頭痛もしくは勃起不全、といった形をとるので、今回は備えもおさおさ怠りなく、1000枚を超えたあたりで歯医者に行き、オリゴ糖を常用し、睡眠も十分とるよう心がけた。
ところが、物語のいよいよ佳境に入った1週間前、全く思いがけずに右耳を失聴した。この症状は初めてである。まるで出口を失ったストレスの魔物が、無防備な搦め手に押し寄せたかのように、右の耳から音が消えた。
時あたかも拉致されていた某社保養施設からの脱走に成功し、家にいるのも何なので、秘密兵器(すなわち動く書斎)三菱スペースギアとともに湘南方面に潜伏していた折であった。
逗子の小坪漁港に車を止め、出船を待つ釣人のような顔をして甘い恋物語なんぞを書いていると突然、潮騒も鷗(かもめ)の声も棕櫚(しゅろ)の囁きも、モノラルになっちまったのである。
痛くもかゆくもなかった。さしたる支障もないので、「小説現代」八月号に発表予定の小品を一気に書き上げ、腰越あたりのショットバーで馬鹿ッ騒ぎをしてから帰京した。
モノラルな世界の不自由に気付いたのは数日後である。
大変意外なことであろうが、私はクラシック音楽鑑賞という人品にふさわしからぬ趣味を持つ。このところ欠かさず行っているのはカザルスホールで月に一度催される新日本フィルの演奏会である。
このシリーズは、まったく採算度外視、わかるやつだけ聴けという感じの格調高い内容のもので、たとえば一昨年は年間通じてハイドンの全交響曲演奏、昨年度はドイツ浪漫派のいろいろ、そして今年は「ロマン主義の系譜」と銘打って、その道の通オタクのためのシンフォニーやコンツェルトを聴かせてくれている。
当日の出演は私の大好きな井上道義氏指揮によるフォーレの組曲とグノーの小交響曲であった。余談ではあるが井上氏は指揮もピアノもすばらしいが、ハゲもすばらしい。他人のような気がせず、いきおい心も通いあう。
毎回ご招待をいただいているので文句は言えないが、まずいことにはその日の席が二階の右バルコニーだったのである。
フォーレの聴きどころはその繊細な抒情であり、グノーの小交響曲は息詰まる感じの管楽合奏であった。この演目を左耳モノラル状態のまま右側バルコニー席で聴かねばならなかった。井上氏のハゲと私のハゲが共鳴し合うことはついになかった。
ナマ殺しであった。脱稿直前の頭の中がグシャグシャになってしまい、いっそ聖橋から身投げしてやろうかと思ったが、それでは私のハゲが井上氏のハゲに屈したことになりはすまいかと考え直し、文学の栄光のために生きる決心をした。
それで、耳鼻科に行った。