食卓に個の利益などあってはならない
かくいう私も、しばしば出版社の人たちから供応を受ける。しかし、出版社も私も彼らほどバカではない。少なくとも供応の理由ははっきりと認識している。
出版社側は作家にいい小説を書かせ、いい本を作り、それをたくさん売って利益を上げようと考えている。この姿勢は正しい。
また中には、社の利益などは二の次で、いい小説を立派な本にして世に問い、文化に貢献しようと考える熱心な編集者もいる。この姿勢はものすごく正しい。そして多くの場合、この両者の姿勢は結果的に同義となる。
一方の作家の側も、まさか漫然と供応を受けているわけではない。自分が構想中の小説は、どこの出版社から出すのがよいか、どの編集者が適任か、つまりどうすれば自分の作品を最善の形で世に送り出すことができるかと、真剣に考えている。
まさか供応の質や多寡、あるいはたかだか恩義理や私情で、自分の作品の売り先を決めることなど、夢にもあろうはずはない。
要は自宅なり出版社の会議室なりで、相互の意見を交換する会議を開いてもいっこうに構わないのである。
私は酒を一滴も飲まず、ゴルフもせず、女色にもさして興味はないので、実は内心この方法がよいとつねづね思っている。
しかし、一冊の書物を世に出すためには、出版社の意思や理解度をできるだけ確認する必要があり、編集者の力量や専門知識も把握しておく必要があるので、許される限りの時間をとってそれらを見極めねばならない。
その間、腹がへるから飯を食い、咽が渇くからウーロン茶を飲む。少なくとも私にとっての供応とはそういうものであり、また出版社側もそのつもりで酒食を供しているのだと思う。だから供応とはいえ、先方に失礼にならぬ範囲で、ときどきは勘定もこちらで持つ。
私たちは共同の責任で良いことをしようとしているからである。
はっきり言って、出版社の人々は世々に抜きん出た選良とは称しがたい。
自他ともに認める選良は大蔵省に入省したのである。あるいは大手証券会社や銀行に就職した。
ましてや小説家は、選良どころか文学三昧の末の落ちこぼれ組がほとんどで、私などは大学にも行かず、自衛隊に入って除隊後も人生の裏街道を歩き、ワラにもすがる思いでようやく作家になることができた。
選良たちから見れば不俱戴天のろくでなしであろうかと思う。
そうした私たちでも、何事かをなさんとする人間が食卓を挟むことの重大さはよく知っている。法律に触れるとか触れないとか、そんな低次元の話ではない。大の男が、協力して社会のため文化のために事物を創造しようとしているのである。少なくともその食卓に個の利益など、かけらすらあってはならない。