バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第87回は、「羞恥について」。
私たちは「退屈」な時代の申し子だった
昨年暮れのクリスマスの時にもちと紹介したことだが、20代前半のある時期、私はたいそう金持ちであった。
ひやかし半分で加入したマルチ商法が当たりに当たって年齢不相応の大金を手にしたのである。組織全体が大爆発したのだから、私を勧誘した兄も、私が勧誘したイトコの松ちゃんもみな大金持ちになった。
今さら税務署が来ることもなかろうから具体的に言うと、毎日10万かそこいらの金がほぼ不労所得として入ってきたのである。
妙な時代であった。世は高度成長の階段を昇りつめ、これといった事件は起こらず、国民は等しく安穏と生活していた。キーワードは「退屈」で、いわば私たちはそんな時代の申し子なのであった。
私たちは原宿の事務所で顔を合わせると、決まって「何かギョッとするようなことねえかなあ」、と言った。急激に豊かになったのは結構な話なのだが、なにしろ私は自衛隊を満期除隊した直後、イトコの松ちゃんは床屋の徒弟からの転身で、毎日入ってくる大金の使い途が全くわからなかったのである。
そんなある日、ギョッとするようなことが起こった。
クソ暑い日盛りの午後であった。メシでも食うべえと事務所を出た私たちの目前を、突如つむじ風のごとく全裸の男が駆け抜けたのである。
「なななな、なんだっ! なんだってんだ!」
と松ちゃんは絶叫し、私は声もなく立ちすくんだ。
一糸まとわぬ全裸に白いソックスとスニーカーをはいた若者は、信号待ちの雑踏など物ともせず、あれよあれよという間に表参道を駆け上って行った。全く突然のこととて、人々はワーもキャーもなく、ただ目を点にして若者を見送った。
これこそ当時の原宿名物「ストリーキング」であった。
若い読者は決して信じはすまいが、こんなものが本当に流行したのである。たぶん、意味はないと思う。強いて言うなら、自由の肉体的表現とでもいうか、ストレス発散というか、ひたすら目立ちたいがためというか、何だか良くはわからんが、いわゆる性倒錯的な理由でなかったことは確かだ。
私はその夏のうちに、ストリーキングをつごう3度目撃した。最初は件の若者、2度目は外人男性、3度目はあろうことか男女のアベックストリーカーであった。
彼らの疾走がいったいどこからどのように始まってどこで終るのかは知らない。ただ全裸に白いソックスとスニーカーをはいていずこからともなく現れ、原宿の雑踏を仏頂面で駆け抜けるのである。ともかく任意の通行人である私がひと夏に3度も遭遇したのであるから、立派な流行であったにちがいない。
ところでその夏、私たちには相も変わらぬネズミ算的不労所得が続いていた。前述の個人的事情により金銭感覚が完全にマヒしており、1箱のハイライトに1万円札を出して「釣りはいらねーよ」などと言ってババアをたまげさせ、ワイシャツも下着も毎日使い捨てであった。
なにせ極めつきのにわか成金であるから、高級クラブを飲み歩くとか、女に入れあげるといった知恵もない。よしんば見よう見まねで豪遊をしたところで、翌朝事務所に顔を出せばどうでもいい書類とともに巨額の不労所得が待っているのであった。後年法律によって規制されたところのマルチ商法、すなわち無限連鎖講の最盛期に私たちは出くわしていたのである。
それまで自衛官と散髪屋の徒弟であった私と松ちゃんは、突然訪れたそんな暮しの中で人生の目的意識を失った。むしろ怠惰な日々であった。
私と松ちゃんは当時の家賃で20何万円もする代々木公園裏の超豪華マンションに住み、金ならいくらでもあるけど用途がわからんので、毎晩チンチロリンなんかをやって無聊(ぶりょう)を慰めていた。
こういう状況下でのバクチというものは全くつまらない。ましてや2人は幼時から兄弟同然に育ったイトコ同士なのである。
金を賭けてもつまらんから、勝った方が負けた方を殴るということにした。このルールは当初かなりの緊張感があって面白かったが、つい徹夜をしたらお互い無惨な顔になってしまったのでアホらしくなってやめた。
負けたらコップ1杯の水を飲む、というのもやった。これも初めのうちはたいそう面白かったが、徹夜をしたら死に損なったのですぐにやめた。