「100万で勘弁してくれ」と、私は泣いた
そんなある晩、ふいに松ちゃんが提案したのである。負けた方がストリーキングをやろう、と。
なにしろ流行のさなかであるから、この罰ゲームにはインパクトがあった。絶対にやりたくはないけれど、ウーム、負けたら仕方ないか、というほどの絶妙の罰則である。
夜中にやっても面白くないので、チンチロリンにスコアーをつけ、人目につく朝の7時に、負けた方がマンションのまわりを1周してくる、ということになった。
ものすげえ緊張感であった。なにしろ当時としては界隅屈指の豪華マンションである。朝の7時といえば様子の良い奥様がジュータンを敷きつめた廊下をいそいそと歩き、1階ロビーのソファでは早起き老人が新聞を読んでおり、駐車場にはお迎えの運転手も待機しているであろう。そのただなかを一糸まとわぬ全裸で疾駆する自分の姿を想像すれば、サイコロを握る手にもビッシリと脂汗がうかぶのであった。
勝負はおおむね私が優勢に進み、夜のしらじらと明け染めるころには大勢が決したかに見えた。
「100万で勘弁してくれ」と、松ちゃんは泣いた。「いいや、勘弁ならねえ。ストリーキングだ」と、私は無情に言った。
ところが、勝負はゲタをはくまでわからねえとは良くぞ言ったもので、夜明けのコーヒーを飲んだとたん、にわかに形勢が逆転した。床屋の徒弟の頭に突如アドレナリンが爆発し、シゴロカッパギピンゾロゴゾロの出目が、魔術のごとく出はじめたのである。
「100万で勘弁してくれ」と、私は泣いた。「いいや、勘弁ならねえ。ストリーキングだ」と、松ちゃんは無情に言った。
私はかつて、7時の時報というものをそのときほど呪わしく聞いたことはない。
今でもそうだが、私は知る人ぞ知る律義者である。ウソはつくけど約束は守る。そんなことは各出版社の原稿取りはみんな知っている。
で、私はその時もなかば思考停止状態のまま肚をくくった。もちろんこの場合の肚をくくるというのは、シャツもパンツも脱ぎ、白いソックスにスニーカーをはくことである。
「じゃあ、行くよ」と、私は玄関口で言った。「ほんとに行くからね。冗談じゃないんだからね」
折しも廊下を足音が過ぎた。とたんに松ちゃんは、全裸の私をドアから蹴り出した。廊下にはゴミ袋を提げた近所の奥様が呆然と立ちすくんでいた。例によってワーもキャーもなかった。
その後の数分間の出来事は、20年たった今日でも赤面の至りである。思い出しつつ羞恥を禁じ得ない。私はひたすら廊下を疾駆し、階段を降りればいいものを、ついエレベーターに乗ってしまい、不幸にして途中で乗り合わせたオヤジを絶句させ、ロビーを一目散に駆け抜けてマンションを1周した。
余談ではあるが、自衛隊を除隊して間もない当時の私は、まことに筋骨隆々たる立派な体格をしていた。だからそれなりにサマになったとは思うのだが、サマになるということはこの際あまり好ましいことではあるまい。
永遠にも感じられる数分間であった。こうして臆面もなく過去の恥辱をメシの種にする自分に気付くと、何だかいまだに公衆の面前を素裸で走っているような気分になる。
勝負に勝った松ちゃんはその後大成功して、今は社員数十人を抱える建築会社の社長になった。
(初出/週刊現代1995年1月21日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。