ご老人たちがはく靴がない ところで、困ったことに今日では若者の体格が大きくなったせいか、私が妥協しなければならない24センチの靴さえ数が少なくなってしまった。デパートのSサイズコーナーに行くと、黒の短靴に限ってはあるのだ…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第98回は、「不均衡について」。
62センチの頭に23.5センチの足
べつに貿易摩擦について論じようというわけではない。今回はしごく個人的な愚痴を言わせていただこうと思う。
かつて私は本稿において、私のハンディキャップであるところの「巨頭」について書いた。常人にはまことに信じ難いことであろうが、私は頭のサイズが62センチあり、よって既成の帽子がないのである。
これから述べる話は、実はこの「巨頭について」と対をなす。当初は連続して書こうと考えていたのだけれど、続けて読めば余りにインパクトが強く、かつ私を異形の怪物のように誤解せしめるおそれがあるので、しばらく間を置くことにした。「巨頭について」をご記憶の読者はさぞ面白かろうと思う。
まことに不均衡きわまりない。頭周62センチにおよぶ私は、足のサイズが驚くほど矮小なのである。
正確には23.5センチ。昔風にいうなら9文7分である。ただし、このサイズの既製品は市販されていないので、通常は24センチの靴に底敷を入れて使用している。
23.5センチの足は、62センチの頭と同じくらい珍しいと思う。だが、23.5センチの足も62センチの頭も、世の中にいないわけではない。問題は、23.5センチの足を持つ男が、62センチの頭を持っているという事実だ。
まことに不均衡極まりない。40年以上も同じ身体と付き合っていれば、そうそう不自由を感ずることもないのだが、たとえば歩行中に靴紐がゆるんで結び直そうとするとき(いつもブカブカの靴をはいているのでしばしば紐がゆるむ)、つい足の小ささと頭のデカさを意識してしまい、重心を失って尻餅をつくことがある。
この小さい足で、よくもまあバカでかい頭を支えているものだと気付いたとたん、フワッと身体が浮いてしまう。
身長169センチ、体重65キロという諸元は、同世代の男子としてはほぼ平均、やや優位といえる。ツラ構えは多少インテリジェンスには欠けるが、リベラリズムに反するほどではない。性格も巷間噂されるほど悪くはないと思う。
かように平均的な、そして自ら突出することを嫌う私に、神はなぜ62センチの巨頭と23.5センチの矮足を与えたのであろうか。
どっちか片方ならばシャレで済むのである。さしたるコンプレックスを感じることもないのである。しかし、並外れた矮足で巨頭を支えている現実を意識すると、ふいに薄氷を踏むような、綱渡りをするような、竹馬に乗っているような不安感に襲われる。
巨頭も矮足も異常ではないが、その両方を具有しているという不均衡は長く私のコンプレックスであった。
ために親しく交際した女性などに対しても、つとめて「頭かくして足かくさず」または「足かくして頭かくさず」をモットーにしてきた。
幸いなことに、矮足などというものはよほどジックリ観察しなければバレることはない。巨頭にしても「巨顔」ではなく、前後に長い「長頭」(すなわちツタンカーメン型)であるので、さして目立つわけではない。
秘密が露見したのは、去ること四半世紀前、自衛隊入隊の折であった。
以前にも書いたように、制帽、作業帽、ヘルメットともにふさわしいサイズがなく、班長と補給係陸曹が軍規を犯して私の頭に合うようそれぞれを改造してくれた。
その規格外の巨頭新隊員の靴が、あろうことか規格外の23.5センチだったのである。これが笑わずにおれようか。
入隊に際しては、一般にワンサイズ大きめの被服類が支給される。新隊員教育機関に、カリキュラムに従った筋肉が付くので、半年後にはちょうど良くなるからである。しかし、まさか足の裏までデカくなるということは考えられまい。ましてや靴は兵隊の命そのものなのである。
当時、官品靴の規格は24センチが最小であった。制服用の短靴と運動靴はまあいいとしても、戦闘訓練や行軍に使用する半長靴はどうしてもピッタリのサイズでなければまずい。で、こればかりはさすがの補給係陸曹も改造する技術はなく、やむをえず爪先に脱脂綿を詰めるということで妥協するほかはなかった。
結果は悲惨であった。まず両足の爪がすべて「巻き爪」になり、紫色に変色してしまった。近頃ではあまり経験する方はいないであろうが、「巻き爪」というのはつまり、爪が内側に巻いて肉に食い込んでしまう状態である。たいそう痛い。
さらに、行軍の後には両方の踵(かかと)に巨大なマメができてしまった。マメというより、踵全体の水ぶくれである。皮膚が硬いので針でつついたぐらいでは破れず、カミソリで切ると袋を破裂させたように水が出た。
以後2年間、私は文字通り摩頂放踵(まちょうほうしょう)して(頭も踵もすりへらすほど努力をするの意)お国のために尽くさねばならなかったのであった。
ご老人たちがはく靴がない
ところで、困ったことに今日では若者の体格が大きくなったせいか、私が妥協しなければならない24センチの靴さえ数が少なくなってしまった。デパートのSサイズコーナーに行くと、黒の短靴に限ってはあるのだが、たいていは情けなくなるような古くさいデザインである。要するに今どき24センチの靴をはくのは、相応のご老人であると決めてかかっているらしい。舶来の高級靴などにはまずこのサイズはない。
したがってけっこうシャレ者である私は、24.5センチの靴に底敷を入れ、それでもベタベタと踵を音立てて歩かねばならない。おっさん靴をはくよりはマシなのでそうするのであるが、とても疲れる。
さらに不自由なのは、当節流行のウォーキング・シューズやトレーニング・シューズの類いである。
私は自衛隊経験者特有の「健康病」であるので、年甲斐もない運動を好むのだが、24.5センチの運動靴というものがない。また、職業上取材のためにあちこち歩き回るのであるが、これにしても23.5センチのウォーキング・シューズを使用しなければならないのである。
折良く頭もハゲてしまった。かくて私の涙ぐましい摩頂放踵の努力は、今日も続いている。
ふと思うに、ご年配の方の中には近ごろ靴のサイズがないとお嘆きの向きが多いのではなかろうか。私の同世代に23.5センチの足は少いにしろ、昔はさして珍しいサイズではなかったであろう。
だとすると、物のたとえではなくまことに摩頂放踵してお国のために尽くされてきたご老人たちが、あろうことか今日に至ってはく靴を持たないということになる。
これは由々しきことである。いくたの艱難険阻(かんなんけんそ)を踏破し、戦場を駈けめぐり、焼跡を踏みしめたご老人が、昔日夢のごとき銀座の店頭に立って、はくべき靴を探しあぐねる姿を想像すると胸が痛む。真の福祉社会は、企業が営利を離れてこそ初めて実現できるものではなかろうかと、矮足の私はしみじみ思うのである。
笑い話の続きで不謹慎ではあるが、この原稿を書いている前日、司馬遼太郎先生が亡くなられた。中学生のころ『国盗り物語』に心を躍らせて以来のファンである。いつかどこかでお声をかけていただく光栄を夢見ながら、とうとうお顔を拝見する機会すら得られなかった。
悲しみも喪失感もさることながら、後進のひとりとして足下に礼を尽くす機会さえ得られなかったのは、まこと慚愧(ざんき)に堪えない。要するに、44歳の齢を経てもなお、生前の先生にお会いできるだけの努力を私は怠っていたのだと思う。
初めて知ったのだが、先生の筆名は「司馬遷に遼(はる)かに及ばず」の意であるという。しかしその偉大な業績に思いをいたせば、「司馬遼に遼か及ばず」とうなだれるほかに、お悔みの言葉すら思いつかぬ。
頭がデカいの足が小さいのと、つまらぬことを言っている場合ではないのだが。
(初出/週刊現代1996年3月2日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。