競馬仲間なんだけど、実は作家と文芸評論家でもあり……浅田次郎と某氏の悩ましくも不思議な関係

なにせおたがい二重人格者 さて、私は近ごろ、著名な文芸評論家の某氏と毎週のように競馬を観戦している。 氏は同時に、著名な競馬評論家でもあるのだが、さきに述べた文筆業と競馬業との微妙な相関にいち早く気付いておられたらしく、…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第110回は、「快挙について」。

配当8万8960円の大万馬券を、モロに取った!

うれしいっ!

あんまりうれしいので、発表媒体の公共性も社会性もクソも無視して、今回はこの個人的快挙について書いてしまう。

1回中山5日目第11レース・マーチステークスで飛び出した、馬券連勝配当8万8960円の大万馬券を、モロに取ってしまったのである。

確定申告の恐怖もさめやらぬ昨今、いくら取ったかは言わない。「申告の手引き」によれば馬券収入も一時所得に含まれるということであるから、言いたいけど言わない。ともかく「モロに取った」のである。

ちなみに8万8960円の配当とは100円に対するもので、要するに買った金額の889.6倍の払戻しを受け取ることができる。

ということは、仮に私が1000円の馬券を買っていたとすると、配当は88万9600円である。5000円だとすると444万8000円で、1万円ならば889万6000円、ということになる。

私がいくら取ったかというと―-ううっ、言いたいけどやっぱり言えない。とりあえず正解は上記文中にある。

これが快挙でなくて何であろう。完全無印のアミサイクロン号が中山の1800メートルを一気に遁走した時間はわずか1分53秒であり、私がまじめに小説を書いて同様の収入を得るためには最低数ヵ月、へたすりゃ1年以上かかることを考えれば、少くとも個人的には狂喜乱舞するほどの快挙である。

ところで、善良なる本誌読者にとってはたいへん意外なことであろうが、私は小説で飯が食えるようになる以前、競馬記事とか予想行為とかで生計をたてていた。馬券歴はすでに30年に近い。

したがっていまだに競馬場に行くと、旧知の業界人からは「浅田さん、小説なんかも書くんだって?」などと真顔で訊ねられる。競馬関係者はまことに忙しいので、ほとんど小説を読む人がいないから、当然のごとくそう認識されている。

一方、出版関係社もまことに忙しいので、ほとんど競馬をやる人がいない。だからしばしば「浅田さん、競馬なんかやってる場合じゃないでしょうが」、と諌(いさ)められる。

現在もともに糧道である。バランスは次第に均衡を失いつつあるが、たとえばJRがいまだ貨物業務を続けている程度に、競馬関係の仕事も多い。

都合の良いことには、各関係者に相互の接点がないのと同じ理屈で、双方共通のファンというものもまずいない。競馬業界人としての私と作家の私は全く別人格であるから、混同してもらってはむしろ困るのである。

作家が競馬の予想をするというのは、たとえば通勤ラッシュのホームを貨物列車が通過するほどの危険があり、競馬人が小説を書くということは、山手線の貨物路線を成田エクスプレスが走っているような、一種の猥褻(わいせつ)感がある。

私の競馬指南書はすでに絶版状態であるが、にも拘(かかわ)らず先日のサイン会にはこれを聖書のように持参してくるファンの方が何人もいた。セッセと小説にサインをしながら、いきなりボロボロの指南書を差し出されたときは、ギョッとした。予期せぬ貨物列車の通過に肝を冷やした気分であった。しかも彼らは、あわてる私にきっかりと目を据(す)えて言うのである。

「皐月(さつき)賞はどの馬が?」と。

成り行きまかせの人生とはいえ、ペンネームを使い分けなかったことは、今さら後悔しても始まるまい。

「競馬はロマンである」という言葉がある。これがもし真実であるとするなら、小説家と競馬とは不可分の関係にある、ということになるが、現実はそれほど甘くはない。故・寺山修司さんは、競馬予想とロマンとを融合させることのできた稀有(けう)の作家であるが、あいにく寺山さんの愛読者でなおかつ馬券もうまいという人に、私はついぞ会ったためしがない。

要するに、JRAが何と言おうが競馬はギャンブル以外の何物でもないのであって、競馬場とはテラ銭を差し引かれた残りの配当を、血みどろで奪い合う鉄火場なのである。

だから当然、競馬をまじめにやっている私と、甘い恋物語なんぞを書いている私とは、完全なる別人格であると言える。

なにせおたがい二重人格者

さて、私は近ごろ、著名な文芸評論家の某氏と毎週のように競馬を観戦している。

氏は同時に、著名な競馬評論家でもあるのだが、さきに述べた文筆業と競馬業との微妙な相関にいち早く気付いておられたらしく、徹頭徹尾の別人格者としてペンネームも使い分けておられる。おそらく同一人物であると知っている人は少いであろう。

私はかつて、氏とは同じ媒体の予想欄を担当していたので、その事実は知っていた。

複雑な関係である。私は競馬予想をしながら小説を発表し、氏は同様に競馬予想をしながら私の小説の書評を書いている。

ということは、いざ競馬場で席を並べると、いったいどういうスタンスで会話を交わしてよいものやらとまどう。なにせおたがい二重人格者なのである。

当然の儀礼として、たとえば新聞紙上に立派な書評を掲載していただいた翌日には、お世話様でしたの一言も言わねばならぬのであろうが、考えてみればものすごく無礼な気もする。おそらくあちらは、もっと面映(おもは)ゆい気持ちであろうと察せられる。

だったら何も仲良く観戦しなくても良さそうなものであるが、妙にウマが合ってしまい、何度かご一緒するうちに、早朝から指定席の列にしゃがみこむといういけない関係になってしまった。

競馬場での2人は、もちろん完全なる競馬オヤジである。太いの太くねえの、ヤリだのヤラズだの、やれ時計がどうの上がりがどうのと意見を交わし合い、コーヒーを啜(すす)り弁当を食い、ホーム・ストレッチの叩き合いに際しては「そっのままァー!」などと奇声を揃える。

服装はといえば、これもおたがいひとめで競馬オヤジとわかる身なりである。パドックの寒風に耐えうる防寒コートを着、双眼鏡を首から下げ、耳には赤ペンを挟んでいる。

そういう関係がしばらく続くうちに、作家と文芸評論家という相互の認識は消えた。

ところがそんなある日、氏の主催にかかるパーティーに招かれた。招待状の返送に際しては、一瞬とまどった。ハテ、いったいホテルのバンケット・ルームで、どういう挨拶をしたものかと思い悩んだのである。

まさか防寒コートに双眼鏡をぶら下げて行くわけにもいくまい。あちらもまさかそのなりではあるまい、と思う。

で、当日私は、防寒コートは着ずにフォーマル・スーツをバリッと着、双眼鏡はぶら下げずによそ行きのメガネをかけ、パドックでは常に火焔(かえん)太鼓のごとく逆立てている頭髪もムースでベットリと固めて会場へと赴いた。
ホーム・ストレッチならぬ都会の夜景を眼下に望む最上階の絨毯(じゅうたん)の上に磨き上げた革靴を一歩ふみ出したとたん、私はあせった。

受付の金屏風の前に、ダブルのスーツを着、メガネをかけかえ、頭髪をビシッとムースで固めた某氏が立っているではないか。

一瞬、ナゼあいつがここにいるのだと思った。氏もその瞬間、ナゼあいつがここに来たのだ、という顔をなさった。

「どうも先生。本日はお招きにあずかりまして」
「ようこそお越し下さいました、先生。お忙しいところ恐縮です」

会場で交わした言葉は、それだけである。

その週末、私たちは何ごともなく肩を並べて指定席の行列にしゃがみこみ、ヤリだヤラズだ、時計がちがうの上がりがどうのと囁き合った。まことにふしぎな関係である。

それにしても、馬番連勝8万8960円は快挙であった。このところ氏は中山、私は府中場外で、顔を合わせていないが、証拠の馬券は持っている。

「へっへっ、取っちまったよー」
「ほんとかよー」

明後日の朝の会話を想像して、私はひとりほくそ笑む。

(初出/週刊現代1996年4月6日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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