松平定知の「一城一話55の物語」

“猪武者”の引き際とは 広島城を明け渡した福島正則

広島城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

「三成を討つべし」 慶長5(1600)年、上杉景勝に謀反の動きがあると始まった会津征伐には家康軍に加わり、進軍。途中小山城において三成挙兵の一報を受け、会議が開かれます。世に言う小山評定です。従軍した武将の多くは大坂に妻…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

賤ヶ岳の「七本槍」で異例の5000石

福島正則は永禄4(1561)年、豊臣秀吉の叔母を母に尾張国で生まれます。市松と呼ばれた幼少より、小姓として秀吉に仕え、天正6(1578)年、別所長治を攻めた播磨三木城の戦いで初陣を飾ります。

天正11(1583)年、秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いでは敵将を討つ活躍を見せ、賤ヶ岳の七本槍のなかでも異例の5000石を与えられます。加藤清正らほかの6人は3000石でした。

小牧・長久手の戦いや四国征伐、小田原攻め、文禄の役などでも武功を上げます。しかし、朝鮮出兵の際、監察だった石田三成らの報告から秀吉が前線の諸将に激怒する事件が起こります。以来、三成や小西行長の文治派と加藤清正や福島正則中心の武断派の仲は険悪なものになります。

広島城二の丸表御門の解説 Photo by Adobe Stock

文治派と武断派

文治派は近江出身の官僚的な武将が中心で、秀吉の側室の淀殿につき、武断派は尾張出身の武将が中心で、秀吉の正妻・おねにつきます。この対立が秀吉の死後、家康が天下を取る遠因にもなります。

前田利家が死去すると、文治派と武断派のバランスが崩れ、福島正則は加藤清正や黒田長政らとともに石田三成襲撃を目論みます。淀殿が秀頼を産み、石田三成を中心とした官僚たちに豊臣政権が運営されていくことに我慢がならなかったのです。この時、武断派を取りなしたのが徳川家康で、これをきっかけに武断派は家康に急接近します。福島正則も養子の正之を家康の養女と結婚させるなど、家康との関係を深めていきます。

広島城 Photo by Adobe Stock

「三成を討つべし」

慶長5(1600)年、上杉景勝に謀反の動きがあると始まった会津征伐には家康軍に加わり、進軍。途中小山城において三成挙兵の一報を受け、会議が開かれます。世に言う小山評定です。従軍した武将の多くは大坂に妻子を残していたため、家康はこのまま会津に向かうか、反転して三成を討つか、三成方につくか?と問います。武将たちに動揺が広がるなか、正則が人質を捨てても家康公の先鋒として三成を討つべしと発言したことで、家康軍の流れができ、東軍が結成され、関ヶ原で家康軍の東軍と三成軍の西軍が激突します。

関ヶ原の戦いでは宇喜多軍と激しい戦闘を繰り広げ撃退。その功もあって、西軍の総大将毛利輝元の領地だった安芸と備後あわせて49万8000石を得て、広島藩を開きます。

広島城の太鼓櫓 Photo by Adobe Stock

「猪武者」?善政を敷いた

猪武者の代表のようにいわれる正則ですが、検地の結果を農民に公表し、実収に見合って年貢を納めさせるなど善政を敷いたとされます。また、加藤清正とともに淀殿を説得し、秀頼と家康の二条城の会見を実現させるなど、豊臣家への忠義も忘れませんでした。

大坂の陣では秀頼から加勢を要請されるも、拒否。そのかわり、蔵米8万石の接収を黙認するなど正則の複雑な心境がうかがわれます。

広島城,二の丸の「狭間(さま)」。この穴から、鉄砲や弓矢で応戦した Photo by Adobe Stock

石垣の修繕を咎められ、改易

そんな正則に幕府は疑念を覚えたのでしょう。家康が亡くなると正則が行った台風で壊れた広島城の石垣を含めた修繕を武家諸法度違反と咎めます。正則は改易となり、一旦は津軽への転封、蟄居が決まります。

家臣は広島城の支城であった三原城に籠城する構えを見せますが、正則の指示で整然と明け渡します。これにより幕府の印象が好転、信濃川中島と越後魚沼にまたがる高井野藩4万5000石に転封になります。見事な城の明け渡しは、後に忠臣蔵で知られる赤穂城明け渡しのお手本にされるほどでした。

広島城 Photo by Adobe Stock

秀吉恩顧の大名で最も長生きした

福島正則は秀吉恩顧の大名のなかでは、最も長生きで、寛永元(1624)年7月に亡くなります。その2カ月後には、高台院にておねが亡くなり、豊臣時代の完全な終焉となるのです。

広島城天守閣 Photo by Adobe Stock

【広島城】(別名・鯉城[りじょう])
天正17(1589)年、毛利輝元が太田川の三角州に築城した典型的な平城。瀬戸内海の交通を押さえる狙いがあり、完成までに10年を要したといわれる。望楼型の五重五階の天守を持ち、120万石の大大名にふさわしいものだった。関ヶ原の戦いで毛利は西軍につき、輝元は萩に減封、代わって福島正則が入城し、整備と城下町作りを進める。その後、幕府に無断で石垣を作ったとして改易、浅野氏が入って明治まで治めた。国宝だった天守は原爆で全壊、現在の天守は昭和33(1958)年に再建されたもの。
天守閣開館時間:9~18時(3~11月)、9~17時(12~2月)
料金:大人370円、65歳以上と高校生180円、中学生以下無料
住所:広島市中区基町21−1
電話:082ー221ー7512

【福島正則】
ふくしま・まさのり。1561~1624年。桶屋の長男として尾張国に生まれる。母が秀吉の叔母であったことから秀吉に仕え、小姓となり数々の武功を上げる。猪武者の代表のようにいわれるが、領民には優しく善政を敷き、広島城明け渡しの際も堂々と振る舞ったとされる。黒田長政の家臣、母里太兵衛(もりたへえ)との酒の飲み比べで、秀吉から拝領した名槍「日本号」を取られた逸話は有名。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を15年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

松平定知さん

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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