松平定知の「一城一話55の物語」

「天下の賢妻」の至言とは 掛川城主・山内一豊の出世はお千代の“へそくり”で始まった

掛川城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

「富貴などにこだわると男子、何事もできませぬ」 さて、気になる田中孫作ですが、その後も忠臣として仕え、一豊、千代の廟所がある京都妙心寺に墓があります。そして子孫は山内家の家臣として明治まで召し抱えられたといいます。 お千…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

掛川城5万1000石の城主に出世

掛川城といえば山内一豊。木造で復元された掛川城天守は、東海道新幹線の車窓からもその優美な姿を望むことができます。

一豊は尾張の出。長じて信長の家臣となり、秀吉にも仕えます。姉川の合戦で初陣し、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐にも参加していますが、個性の強い武将の多い豊臣政権下では、それほど目立った存在ではありません。それでも若狭高浜の城主から近江長浜の城主に、家康が関東に移封となった後、掛川城5万1000石の城主にと出世しています。

内助の功という言葉が出ると必ず紹介され、戦国時代の賢妻の代表といえるのが、一豊の妻であるお千代さんです。戦前には教科書にも載っていたそうです。出自に関しては諸説ありますが、エピソードもたくさん残っています。それだけ魅力的な女性だったということでしょう。

掛川城 Photo by Adobe Stock

当時はほぼ男女同権だと思えるエピソード

一豊が信長に仕えた頃、安土城下に大きな馬市が開かれた、とも「東国一」といわれる名馬を売りにきた人がいたとも、伝えられていますが、いずれにせよ一豊はある馬を見て「ウォッ」と思います。一豊は欲しいのですが、目の飛び出るような価格に手が出せません。この馬で馬揃えに臨めば、さぞ信長公も感心されるだろうに。「貧乏ほど悔しいことはない」と、一豊はお千代さんにこぼしました。

するとお千代さんが「いくらするのですか?」と尋ねます。「10両だ」と一豊がこたえると、おもむろにお千代さんは、結婚の時、実家から持ってきたへそくりの10両を出してきます。夫の大事の時は妻が必死に支える、「糟糠の妻」の典型ですが、中世女性史がご専門の京都橘大学の田端泰子名誉教授によれば、当時はほぼ男女同権だったということです。結婚した女性は夫に内緒で、実家からの持参金を隠し持っている「自由さ」を持っていたということです。二人はとても仲が良く、一豊は妻ひと筋で、生涯側室をおきませんでした。

まあ、それはさておき、お千代さんが買ってくれた名馬にまたがって馬揃えに参加した一豊の姿が信長公の目にとまり、「よくぞ織田の家来を目当てにわざわざ東国から出てきた馬喰たちをむなしく返さず、恥をかかせないでくれた」と誉め、200石を賜ったということです。これから一豊の出世が始まります。

掛川城御殿 Photo by Adobe Stock

家康を感激させたお千代のファインプレー

まだあります。お千代さんの最大のファインプレーは、関ヶ原の合戦の開戦前のことです。この時、一豊は豊臣恩顧の武将ながら、福島正則や黒田長政といった石田三成嫌いの武断派に属し,家康とともに上杉討伐のため会津に向かいます。7月末、一行が古河に入った頃にこんなことがありました。

一豊のもとに、お千代さんから早飛脚がやってきたのです。この飛脚の名は田中孫作といいまして、一豊の家臣です。彼は一豊が最も信頼していた家臣でしたから、お千代さんからの連絡だとピンときます。その孫作が文箱と一緒に笠の緒により込んだ一通の密書を手渡します。密書はお千代さんからのもので、そこには三成が挙兵したことと、自分のことは心配せず,家康様に忠節を尽くしなさいとあったといいます。

お千代は文箱は開けないでそのまま家康に届け、二心がないことを証明なさりませ、とアドバイス。さらに翌朝の軍議で家康がこのまま会津に向かうか、引き返して三成と戦うか、あるいは三成に味方するかを尋ねた時には、一豊は福島正則や黒田長政に続き、即刻家康に味方することを断言したのみならず、その場で自分の掛川城を提供すると発言し,家康を感激させます。

掛川城の天守閣から眺めた街並み Photo by Adobe Stock

土佐24万5000石の領主へ

これらはみんな千代さんのシナリオです。これをきっかけに、他の東海道に城を持つ武将たちも同様に忠誠を誓うんですね。これがいわゆる小山評定です。

そう思うと、お千代さんの笠の緒により込んだ密書にあった「指示」が、この天下分け目の戦いの帰趨に大きく影響したと思います。東軍の勝利を呼び込むきっかけを作った、その意味でお千代さんの密書は値千金でした。頼山陽は後にこの経緯を「一条の笠の緒に繋ぐ八行の字」と詠んでいます。

また司馬遼太郎は一豊のことを、「大物ではないが、小物でもない」と評していますが、まさに言い得て妙。姉川・金ヶ崎の戦いで左目に敵の矢を受け、刺さったまま戦いを続けた、という武勇伝以外に武功はありませんでしたが、関ヶ原の後は、土佐24万5000石の領主となるのです。

掛川城の武者返し Photo by Adobe Stock

「富貴などにこだわると男子、何事もできませぬ」

さて、気になる田中孫作ですが、その後も忠臣として仕え、一豊、千代の廟所がある京都妙心寺に墓があります。そして子孫は山内家の家臣として明治まで召し抱えられたといいます。

お千代さんの言葉に、「富貴などにこだわると男子、何事もできませぬ。いつも元の裸に戻るお覚悟が大事でございます」というものがあります。こう言われて仕事ができれば、男たるもの幸せだと思います。

掛川城 Photo by Adobe Stock

【掛川城】
三層四階天守閣は平成6(1994)年に日本初の木造で復元されたもの。掛川の町並みは城下町の面影を残すよう整備され,散策が楽しい。山内一豊が築城した高知城は掛川城を模したとも伝えられる。
開館時間:9時~17時(入館は9時~16時30分)
入場料:大人410円、小中学生150円
住所:静岡県掛川市掛川1138-24
電話:0537-22-1146

【お千代】
見性院・けんしょういん。1557~1617年。土佐国高知藩祖山内一豊の正室。一豊を助け土佐24万石の太守に押し上げる。一豊の死後夫婦の実子として育てた捨て子(名前も「拾い」)が長じて出家した寺(妙心寺)に入り、名も見性院となる。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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