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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、織田信長と安土城です。

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3年の歳月をかけ、1579年に完成

安土城はひと昔前まで、あまりわからない城でしたが、滋賀県安土城郭調査研究所が、1989年度から20年計画の調査・整備事業を進めた結果、少しずつ、その偉容がわかってきました。築城は信長が武田勝頼を破った長篠の合戦の翌年、天正4(1576)年に始まり、天正7(1579)年に完成したといわれます。普請奉行は重臣・丹羽長秀です。

安土城は標高199mの安土山に築かれ、高さ46m地上6階地下1階で、当時世界最大の木造建築であったろうと思われます。今でいうスカイツリー級のランドマークでしょう。また基礎は総石垣で作られています。

石工の職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」が作ったといわれますが、全国の石工たちが結集した、ともいわれています。また、瓦は明から招いた一観が焼いたとされ、蒔絵の技術を応用した金箔が貼られていたといいます。

安土山から琵琶湖を望む Photo by Adobe Stock

見せるための城

さて、その調査で最大の発見が、安土城の大手道です。幅6m、側溝をふくめると8mという幅の広い石段が、180mにもわたって直線的に続いています。

一般に城の建設は「攻められにくく、守りやすい」が原則です。それが幅8mの道が180mにわたって直線的に続く……。こんなことはそれまではありえないことでした。安土城が戦うための城ではなく、見せるための城といわれるゆえんです。

安土城址 Photo by Adobe Stock

「天下布武」を宣言した信長の権力

とはいうものの、「天主」近くの黒金門には、万一に備えて直角に2つに折れた石垣が組まれており、城内の兵士が敵を迎え撃つ「タマリ」もあり、キチンと防御も考えた作りにはなっています。「見せるための城」で、いったい何を見せるのか?

それは、自分の威信を天下に対して見せるのです。「天下布武」を宣言した信長の権力です。その象徴が安土城だったのです。

安土城の黒金門跡 Photo by Adobe Stock

「天守」とはいわず「天主」

大手道はなぜそんなに広いのかというと、天皇が安土城に来られることを想定していたからです。京都の時代祭でご覧になったことがあるかもしれませんが、天皇の行幸は、鳳輦(ほうれん)という大きな御輿でお越しになるわけです。そのための大きな道だったわけです。天皇をお迎えする本丸は、信長の起居する天主よりも下にあり、天皇を見下ろすことにもなります。

信長は天主で起居し政務を取り仕切っていました。天守とはいわず天主といいます。日本初の“マンション”(高層住宅)の住人は、間違いなく信長でした。家族も本丸付近で生活したほか、秀吉や前田利家などの住居は城下ではなく、天主に通じる道の入ってすぐの左右にありました(利家のほうは疑う声もありますが)。なお、彼らの城の出入りは「大手道」ではなく、裏側の「搦め手道」でした。

安土城の天主跡 Photo by Adobe Stock
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松平定知
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