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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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秀吉の天下取りの布石となった重要な会議

歴史にはターニングポイントというものがありますが、清洲城で行われた清洲会議は、本能寺の変で横死した信長の後継者と遺領の分配を決める会議であるとともに、秀吉の天下取りの布石となった重要な会議です。

清洲城は尾張の守護大名だった斯波(しば)義重が応永12(1405)年に築城したと伝えられています。その斯波氏に仕え、尾張の守護代になったのが織田氏です。ちょうど尾張の国の中央にあり、中山道、伊勢街道にも通じた尾張の首府でした。

信長も清洲城を本拠とし、桶狭間の戦いもこの清洲城から出陣しています。有名な幸若舞の『敦盛』を舞い、寅の刻といいますから朝4時くらいにほんの数騎で、熱田神宮に向かい、そこで部隊が集結し、戦勝祈願したとあります。数騎ずつ出ることで今川の目を欺いたというわけです。

清洲城から見た清須市の街並み  yoshinoriy@Adobe Stock

家康が信長と結んだ『清州同盟』

その桶狭間の戦いの2年後、永禄4(1562)年に清洲会議とは別の重要な会議が行われています。家康、当時は松平元康といいましたが、彼が信長のもとを訪ねて結んだ『清洲同盟』です。これは桶狭間の戦いで今川からの自立を図り、三河統一を目論む家康が、今川対策に専念したいという思惑と、美濃の斎藤氏攻めで三河方面の負担をなくしたい信長の思惑が一致してできた同盟です。

当初は対等な関係でありましたが、信長の勢力拡大とともに、従属関係になっていきます。桶狭間の頃は今川が圧倒的に強く、信長も家康もほぼ同じくらいの力だったことは、戦国時代を理解するのに頭に入れておきたい事柄です。

信長の長男・信忠が存命なら開かれなかった会議

それから20年後の天正10(1582)年6月2日。京都本能寺で信長が明智光秀に討たれ、その25日後に行われたのが清洲会議です。信長の後継者を誰にするか……、その会議に集まった武将を紹介しましょう。

織田家臣団の柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の4人です。本来ならば武田討伐で功績があり、関東方面総司令官として厩橋(現在の前橋)に本拠を置いた滝川一益が出席すべきですが、本能寺の変に乗じた北条氏直が上野(現在の群馬県)に侵攻し、世に言う神流川の戦いで大敗し、旧領の伊勢長島に敗走中で、会議に出ることはできませんでした。

信長の長男・信忠が存命なら会議は開かれなかったでしょうが、彼も本能寺の変当日、二条城で自刃していました。この会議で柴田勝家は、信長の三男信孝を推します。次男には信雄がおり、信雄自身は我こそはと思ったようですが、家老たちの評価が低く推挙されませんでした。そして秀吉は、ドタン場で亡くなった長男信忠の嫡男三法師を立てる挙に出ました。

清洲城  zheng qiang@Adobe Stock
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信長の孫・三法師を抱いて「待った」をかけた秀吉...
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松平定知
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