信長の孫・三法師を抱いて「待った」をかけた秀吉
勝家が信孝に決めようと「よーござんすね」と言った時に三法師を抱いた秀吉が「ちょっと待った! こちらの三法師さまこそ信長公のご嫡系で、お世継ぎにふさわしいと存じます」と言ったと伝わっています。たしかに三法師は信長の長男、信忠の嫡男ですから、筋は通っています。
その結果、勝家の意見は退けられ、3対1で三法師が後継者に決まります。同時に秀吉は丹波、河内、山城と、おいしい領地を独占、柴田勝家は北近江と長浜城を与えられただけで、2人の立場はこの清洲会議で完全に逆転してしまいます。三法師に決まったとはいえまだ3歳ですから、後見人として秀吉が政務を取り仕切るのは、誰の目にも明らかです。
面白くないのが柴田勝家です。滝川一益と織田信孝と組んで賤ヶ岳の戦いで秀吉に挑みますが、敗れたことはご存知のとおり。賤ヶ岳で勝家に味方した信孝は、秀吉側についた兄の信雄に岐阜城を攻められ自害しています。こうして秀吉の天下が開けていくのです。
東軍につくはずだったが…
さて三法師はどうなったかと言いますと、9歳で元服し秀信を名乗り、小田原征伐にも参加しています。その後秀吉から美濃国岐阜13万石を与えられています。文禄の役で朝鮮に渡り帰国した時には中納言となり、岐阜中納言と呼ばれます。この頃までは順風満帆ですが、秀吉が亡くなり関ヶ原の合戦が起こったことで、彼の人生は暗転します。
石田三成から三河、尾張をもらう約束をして西軍についたのです。実際は家康の会津征伐に付き従おうとしたのですが、軍装に手間取り、遅れたところへ三成からおいしい話がきたため、西軍に与したというのが真相のようです。
わずか1日で落城、「感状」を書き始め…
関ヶ原の合戦は、態度を決めかねていた武将がとにかく多いのです。ただ秀信の身になって考えてみますと、おじいさんがあまりにも偉大だったことで、周りから特別扱いされてきたため、ここらで自分の手で何か大きな決断がしたかったのかもしれませんね。このとき秀信21歳でした。
結果は、関ヶ原の前哨戦として岐阜城に籠城して東軍を迎え討ちましたが、福島正則、池田輝政という2人の猛将の前に、わずか1日で落城します。開城を決意した彼は「感状」を書き始めます。感状というのは兵士への表彰のことで、どのくらい武勲があったかを証明する書状です。
兵士が次の就職先を見つける際にこれがあるとないとでは、まるで違うわけです。彼は、若い割にこういう細やかな心遣いがあったのです。周りはさすが信長の孫だと思ったことでしょう。そんな彼を戦国一の激情家・福島正則が助名嘆願し、高野山への出家で許されました。しかし、信長が生前、高野山を敵対視した因縁で、当初入山が許されなかったといいます。