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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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傍流の石見吉川氏の出身

吉川経家は全国区の知名度はありませんが、鳥取の皆さんにはなじみの深い武将です。経家はその名のとおり、中国地方の有力な氏族、吉川(きっかわ)氏の出ですが、傍流の石見吉川氏の出身です。その彼が、なぜ鳥取城の籠城戦の大将となり、自刃しなければならなかったのか。

信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利攻略のため中国地方に向かったのが、天正5(1577)年。それから3年後の天正8(1580)年、秀吉は鳥取城攻めを開始しました。その時の城主は山名豊国でしたが、秀吉の呼びかけにいったんは開城・降伏し、盛り返した毛利方によって追放されてしまいます。

鳥取城跡  tk2001@Adobe Stock

城主不在の鳥取城に守将として派遣

翌天正9(1581)年、城主不在となった鳥取城に守将として派遣されたのが吉川経家でした。これは、吉川一門の総帥で、毛利元就の次男・吉川元春の要請によるもので、経家は文武に優れ人望も厚かったことから選ばれたのです。600石の領地がその対価でした。

経家は首桶を持参して入城したといわれます。死を覚悟の籠城でした。とはいえ、経家にも勝算がないわけではありません。というのも冬になれば山陰鳥取は雪が降り、兵糧不足に秀吉軍は音を上げるだろうという期待があったのです。ところが、その鳥取城には兵糧米がないことに、経家は愕然としました。秀吉が城下の米を買い占めたため、その高値につられて、城内の米まで売ってしまったのでした。なんと3カ月分ほどの兵糧しかありません。

鳥取城跡の石垣  Miyake74@Adobe Stock
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酸鼻を究めた「鳥取城の飢え殺し」...
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松平定知
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