後世の秀吉人気に影を落とした?
敗将が仮に勇敢で清廉な吉川経家でなかったなら、秀吉の鳥取城攻めは凄惨な印象がさらに強まり、後世の秀吉人気に影を落としたかもしれません。
経家は肖像が残っておらず、鳥取市武道館裏にある銅像は、経家の流れを汲むといわれる先代の三遊亭圓楽さんの顔をモデルにしたと聞きましたが……。
【鳥取城】(別名・久松城、きゅうしょうじょう)
因幡守護の山名誠通(やまなのぶみち)が天文14(1545)年に築城したと伝わる。天正8(1580)年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が山名豊国を攻める(第一次鳥取城攻め)と、豊国は3カ月の籠城の後、降参。代わって毛利一門の吉川経家が大将となり、籠城して秀吉に徹底抗戦。これが世に言う、鳥取城の飢え殺し(かつえごろし=第二次鳥取城攻め)だ。城内の兵士は飢餓で壁を食べたという記録も残る。関ヶ原の合戦の後、池田氏が入り、32万5000石の城下町として鳥取は栄えた。
住所:鳥取市東町2
電話:0857-26-0756(鳥取市観光コンベンション協会)
【吉川経家】
きっかわ・つねいえ。1547~1581年。毛利家の家臣・吉川家の分家である石見吉川家に生まれる。織田信長の命を受けた羽柴秀吉が鳥取城に迫ると吉川経家は因州600石の領地を約束され鳥取城に入城。経家は首桶持参だったという。4000人の兵で4カ月籠城するも、秀吉軍2万が包囲、兵糧攻めを受け、落城。秀吉は経家の命を許したが、経家は拒否し、城兵の命を助けるという約束を取り付け、やせ衰えた姿ながらも見事に切腹したという。信長のもとに首が届けられると秀吉が「哀れなる義士かな」と死を惜しんだと伝わる。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」