酸鼻を究めた「鳥取城の飢え殺し」
7月、いよいよ秀吉が着陣し、城兵4000に対し、その5倍の2万人で包囲を開始します。秀吉軍は城周辺の農家を襲い、焼き払います。家を失った農民たちを城内に追い込む作戦でした。これによって城内の人口は膨れあがり、食糧がさらに窮乏していきます。秀吉軍の包囲網は、ネズミ一匹通さないくらいの完全なものでした。陸上がダメならと海上からと、毛利側は水軍によって兵糧を運ぼうとしますが、秀吉軍はこれも撃退。困窮した城からは悲鳴が上がるようになります。一連の緻密な作戦は、秀吉の軍師・黒田官兵衛によるものです。
9月になると、いよいよ食糧が尽きてきます。城内では兵士が草木はもちろん、壁を食べたという記録も残っています。その窮状は酸鼻を極め、「鳥取城の飢え殺し(かつえごろし)」として世に知られることになります。
秀吉は奮闘を称えたが、助命を拒否
10月24日、ついに経家は開城を決意し、自分の命と引き替えに城兵を助けよと秀吉に使者を送ります。秀吉は経家の奮闘を称えて助命を決めましたが、経家はこれを拒否。預かった城とはいえ、結果的に多くの死者を出した責任を取ったのです。そこには鎌倉時代から武士が持ち続けてきた「名こそ惜しけれ」という精神が強く感じられます。
自分を鳥取城に送った吉川元春の嫡男・吉川経言(後の吉川広家)に送った遺書には、「毛利軍と織田軍が激突した、2つの弓矢の境目で、こうして切腹できることは、末代までの名誉である」と書かれていました。