必ず俺様を拝め
安土城の天主は特殊です。ほかの城の天守には見られない特徴がたくさんあります。例えば「吹き抜け様式」もそのひとつです。これは宣教師からヨーロッパの建築物を見聞きし、参考にしたのだと思われます。また城内にそう見寺(※そうけんじ、「そう」は本来漢字で、「總」の糸編ではなく手偏)というお寺がありました。
天主台の南西、百百橋(どどばし)口という入り口があり、用事のある人は皆ここから城内へ入ります。つまり城への通り道がそのまま境内になっています。
当時日本に来ていたポルトガルのイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによれば、そう見寺には「盆山」という石が置かれ、自身のご神体としたそうです。つまり、城下町から城に行くものは、必ず俺様を拝めということなんです。城郭内に伽藍のある寺院があるのは安土城だけです。
復元された天主も絢爛豪華
安土城の天主5、6階は復元され、近くの「安土城天主 信長の館」に展示保存されています。金碧の障壁画は狩野永徳の手によるものといわれますが、復元された天主も絢爛豪華で、思わず息を呑みます。信長には、日本の宗教や思想をひとつにして、己がその上に君臨するといった思想があったのでしょう。
安土城で注目すべきはその立地です。干拓が進んだ現在ではうかがい知れませんが、信長の頃は琵琶湖に接していて、舟を使って様々なところへ向かうことができました。京にも舟ならすぐでした。さらにここは中山道が通り、かつての拠点岐阜にも近く、北国にも睨みが利く場所です。信長は安土城下で楽市・楽座を開きますが、いろいろなものが集まってくる物流の拠点だったわけです。
天主と本丸、焼失させた“犯人”は?
そんな栄華を誇った安土城も、天正10(1582)年、京都本能寺で明智光秀の謀反に遭って信長が横死するや、山崎の合戦の後、天主と本丸が焼失してしまいます。なんともったいないことか。その犯人は、大きく分けて4説あります。
(1)落雷による焼失説(2)野盗による放火説(3)明智光秀の重臣である明智秀満が本能寺襲撃の後、安土城に入り火を放ったという説(4)明智秀満は放火せず、城で自刃した後、城に入った信長の次男信雄が、明智の残党におびえ放火してしまった説です。私はどうも(4)のような気がします。織田信雄という人は、小牧・長久手の戦いの有様を見ても、判断がぶれる人でした。戦国武将のなかでも人気のない人ですが、安土城を焼失させたのも、「彼ならなあ」と思う人たちが作った話なのかもしれません。