目下連日報じられている天皇陛下と皇后雅子さまの英国訪問のニュース。6月28日(現地時間)のオックスフォード訪問は、両陛下がかつてそれぞれに留学されていた思い出の地でのひとときです。雅子さまにおかれてはじつに34年ぶりの再…
画像ギャラリー目下連日報じられている天皇陛下と皇后雅子さまの英国訪問のニュース。6月28日(現地時間)のオックスフォード訪問は、両陛下がかつてそれぞれに留学されていた思い出の地でのひとときです。雅子さまにおかれてはじつに34年ぶりの再訪となりました。
「お妃候補・小和田雅子さん」をスクープ!
私はかつて女性週刊誌「週刊女性」(主婦と生活社)の編集記者でした。もう三十数年前のことですが、「お妃候補・小和田雅子さん」の存在を、いち早くスクープしたことが記者としての“勲章”かもしれません。1987年12月のことで、天皇陛下がまだご結婚前の時代でした。
私は当時の浩宮さま、皇太子さまの番記者として、日本全国、そして世界の行く先々まで取材に出向いておりましたが、雅子さまはそうした日々の中でつかんだ“天皇陛下が心ときめいた女性”でした。
1983年頃から担当記者の一人となった私ですが、天皇陛下が1985年10月、英国・オックスフォード大学マートン・カレッジでの留学を終える頃からは専従の番記者となったのです。アメリカ一周旅行を経てご帰国の際も20日間ほど密着取材しておりました。
さらに、その翌年1986年7月、英王室のアンドルー王子(エリザベス2世女王陛下第2王子、現在のヨーク公)の結婚式で英国へ行かれたときには、全日程1週間の同行取材にも携わりました。大変光栄な取材体験でした。
そんな仕事に従事しておりましたので、当時、お妃候補として注目されていた雅子さまの取材も当然守備範囲でした。
雅子さまは、1988年から1990年にかけて、当時勤務していた外務省の在外研修生として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学されていましたが、その折にも、私はオックスフォードを訪ねております。「雅子さまがそれまで暮らしていたカレッジの学寮を出て、近くのアパートに引っ越したらしい……」との情報を得てのことでした。
オックスフォードの街での雅子さまの“即席記者会見”
ちょうど、1989年9月のこと。35年前のことですが、このときオックスフォードの街で、日本のメディア4社(女性週刊誌1社、テレビ局3社)の取材に対し、雅子さまは、即席の記者会見のような場を持たれました。
活字メディアは私だけでしたが、各社の待ち伏せ取材や追っかけ取材が続くなか、「もうこれ以上追いかけない、と約束してくれるなら……」という大学関係者の仲介で実現した、オックスフォードのある図書館前での光景でした。
記者:パリで皇太子さま(当時)と再会されると伝えられていますが?
雅子さま:わたくしは、そのことには関係ございません。
記者:皇太子さまの「お妃候補」としてお名前があがっていますが、ご連絡などはありますか?
雅子さま:まったくございません。わたくしは、この件につきましてはまったく関係ございませんので、できればもう取材をやめていただき、そっとしておいていただきたいのですが……。
記者:30日(1989年9月30日)に皇太子さまはパリに着きますが、お会いになるのですか?
雅子さま:わたくしはずっとオックスフォードにいる予定です。大陸(パリのあるフランスの意味)のほうへ行く予定はございません。こちらにおります。
「外務省の省員として仕事をしていく」と雅子さま
当時、天皇陛下は、皇太子殿下としてベルギーで開かれていた博覧会「ユーロパリア・ジャパン」の開会式に参列のため、ヨーロッパに滞在中でした。その帰路に立ち寄られるパリでは、「雅子さまとの再会の場が設けられる」との噂が広がっていたのです。
この朝、オックスフォードの閑静な住宅街、バードウエルロードに借りていたワンルームのアパートから出かけた雅子さまは、待ち構えていた日本からの記者やレポーター、カメラマンの質問を受け、そう言葉を返されました。さながら東京の代官山のような街並みを足ばやに歩く雅子さま。そんななかに35年前の私もいたのです。
記者:これまでに何度か殿下とはお会いになっていますが、どんな方ですか?
雅子さま:申し訳ありませんが、そういう質問にはお答えできません。とにかくわたくしはお妃問題には関係していないと思っておりますので……。
記者:英国から帰国されても同じ状態でしょうか。今後も外務省で仕事を続けられるということですか?
雅子さま:わたくしは外務省の研修生として研修している身でして、研修が終わりましたら、外務省の省員としてずっと仕事をしていくつもりです。
記者:つまり、宮内庁からオフィシャルなお話はないということですね?
雅子さま:はい。ですから、みなさまも、もう取材はなさらないでください。
雅子さまはそうよどみなく話され、丁寧なお辞儀をして図書館前から去って行きました。
撮影フィルムをヒースロー空港から空輸
「雅子さんの肉声が取れました。写真もたくさんあります」
私はさっそく東京の編集部へ電話すると、「今週の締め切りに間に合う。いますぐ、ヒースロー空港のカーゴに持ち込め」と、デスクの声が響きました。
私は、そのインタビューの様子を撮影したフィルムを、70kmほど離れたロンドン郊外はヒースロー空港のカーゴエリア(航空貨物)へ運びました。当時はまだデジタルカメラの時代ではなく、入稿するフィルム素材は航空便で送るしかなかったのです。
しかも、「その日の便に間に合わなければ、記事は翌週回しとなる。なんとしても間に合わせろ」とのこと。そこで、朝からチャーターしていたタクシーに飛び乗りました。150kmを超えるような猛スピードと感じましたが、とにかく高速道路をすっ飛ばしてくれ、日本への貨物の最終扱い時間に滑り込んだ記憶があります。ひどい車酔いとなりましたが……。
このときのインタビューのやりとりは、現地にいたテレビ局のワイドショーや、取材の場にはいなかった他のメディアにより、翌週以降「小和田雅子さまが、お妃拒否宣言!」というような内容で伝えられました。私は腹が立ちました。
けれどもその4年後、このインタビューは「皇太子さまご婚約内定」の際、大きな話題となっていくのです。それは、1993年1月6日のご婚約内定報道の際、唯一の「雅子さまのスクープ肉声」として、テレビで繰り返しオンエアされたからでした。結果的に大金星になりました。
「同じオックスフォード大学で学んだ雅子とともに」
私は、この“世紀の肉声”を引き出した一人として、会社から10万円の金一封をいただきました。浩宮さま時代からの番記者として、10年ほどがたっていました。
「お妃が雅子さまと決まって、ほんとうによかった!」
雅子さまのご婚約が内定したとき、私は心からほっとしました。雅子さまをオックスフォードまで追いかけてしまったことは、私の心の中でも“ささくれ”のようになっていました。それが、天皇陛下の一途な思いで、世紀の結婚へとつながったからでした。
天皇陛下は、2023年に復刊したご著書の英国留学記『テムズとともに 英国の二年間』(紀伊國屋書店)のなかで、こんな一文を加えられていました。
《遠くない将来、同じオックスフォード大学で学んだ雅子とともに、イギリスの地を再び訪れることができることを願っている。》
その願いがいま実現した天皇、皇后両陛下。1993年6月の結婚から31年が過ぎていました。
文/沢田浩
さわだ・ひろし。書籍編集者。1955年、福岡県に生まれる。学習院大学卒業後、1979年に主婦と生活社入社。「週刊女性」時代の十数年間は、皇室担当として従事し、皇太子妃候補としての小和田雅子さんの存在をスクープ。1999年より、セブン&アイ出版に転じ、生活情報誌「saita」編集長を経て、書籍編集者に。2018年2月、常務執行役員パブリッシング事業部長を最後に退社。