松平定知の「一城一話55の物語」

高田城の城主だった松平忠輝「幽閉67年」 何が父・家康に嫌われたのか

高田城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

92歳まで流罪の身

高田城は徳川家康の六男、松平忠輝が城主だったことで知られます。しかし、この忠輝という人は92歳まで生きますが、父である家康に嫌われたことで不遇をかこち、2代将軍で兄である秀忠からも疎まれます。

さらに大坂夏の陣では連絡ミスから秀忠の家臣を手討ちにし、合戦にも遅参したことで、秀忠から流罪に処せられてしまいます。当時25歳でしたが、92歳まで流罪の身だったことになり、気の毒な一生といわざるを得ません。そもそも何が家康から嫌われる原因になったのでしょうか?

高田城三重櫓 Photo by Adobe Stock

忠輝の母は側室の茶阿局

忠輝の母は側室の茶阿局(ちゃあのつぼね)ですが、彼女の身分が低かったことと、その子忠輝の顔が醜かったという説(お母さんは絶世の美女だったといわれていますから、これは家康の責任です。)や、忠輝は双子として生まれたためだという説もあります。当時は双子の存在が説明できず、忌避される対象でした。無知とは恐ろしいものです。

家康は、いずれにせよ、忠輝を遠ざけていました。彼が領国を与えられたのは、弟の七男松千代が急逝したあとのこと。初めての領国は武蔵国深谷1万石でした。

その後、伊達政宗の長女、五郎八姫(いろはひめ)をめとったことで後ろ盾ができ、慶長15(1610)年高田藩主となりました。それまでに領有した信濃国川中島とあわせると、75万石もの大大名となりました。さらに慶長19(1614)年には舅である政宗の縄張りで高田城が作られ、忠輝の人生もようやく順風かと思われました。

高田城址公園 Photo by Adobe Stock

秀忠の家臣を手討ちにし、合戦にも遅参

慶長19(1614)年、大坂冬の陣が起きた際に、忠輝は当然大坂に向かおうとしますが、留守居役を命じられます。忠輝の周りから“乱行”の噂が立ち始めたことが原因のようですが、家康と秀忠が申し合わせた可能性は否定できません。

翌慶長20(1615)年、大坂夏の陣では出陣するも、秀忠軍との連絡がうまくいかず、秀忠の家臣を手討ちにし、合戦にも遅参するという失態を演じ、家康と秀忠から厳しい叱責を受けます。忠輝は父と兄の前で武勲をたてようと、功を焦ったのでしょう。

高田城三重櫓 Photo by Adobe Stock

幽閉されていた諏訪高島城で死去

元和2(1616)年、家康が病に伏せ、いよいよという時に息子たちを枕元に呼びますが、忠輝だけは呼ばれませんでした。これはほとんどいじめに近いもので、本人はどう思ったのだろうと考えると胸が痛みます。

そして兄・秀忠は自分も「関ヶ原」に大遅参したのに、忠輝の大坂夏の陣での遅参を理由に彼を改易、伊勢国朝熊に流罪とします。さらに飛騨高山、信濃諏訪へと流罪の日々は続き、天和3(1683)年、幽閉されていた諏訪高島城で死去します。92歳の長寿でしたが、25歳で流罪となっているので、70年近い日陰の人生でした。その間茶道や絵画へと造詣を深めたと伝えられています。

高田城の雪景色 Photo by Adobe Stock

「乃可勢(のかぜ)」という笛の意味とは

ところが時代が300年ほど下った昭和59(1984)年、思いもかけず忠輝の罪が許される日がきます。忠輝の墓のある諏訪市の貞松院には信長、秀吉、家康と渡ってきた「乃可勢(のかぜ)」という笛が保管されていて、家康から忠輝に形見として授けられたという話があります。その真偽はわかりませんが、貞松院の住職が「忠輝公が赦免してほしいと夢に現れた」と徳川宗家の第18代・恒孝(つねなり)氏に語り、赦免にこぎつけたのでした。

翻弄され続けた忠輝の人生ですが、家康、秀忠は、舅の伊達政宗がその家臣である支倉常長をスペイン、ローマに派遣したことで、政宗を、のちのち幕府に刃向かうかもしれない存在として不気味に思っていたのは間違いありません。忠輝“排除”原因のひとつをそこに見ることもできます。特に妻の五郎八姫(いろはひめ)はキリシタンであったことも、家康、秀忠の疑いを濃いものにしたはずです。

思いもよらぬ罪を70年近くも着せられた忠輝ですがそれゆえに「乃可勢」のエピソードは、とてもほっとする話です。

高田城址公園の夜景 Photo by Adobe Stock

【高田城】
徳川家康の六男・松平忠輝の居城として天下普請(徳川幕府が諸大名に命じて工事をさせること)によって築城。工事の総監督は忠輝の舅でもあった伊達政宗。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣のないのが特徴。わずか4カ月で完成し、天守はなく三重櫓が代用された。三重櫓は平成5(1993)年に再建。現在は桜の名所として知られ、日本三大夜桜のひとつとされる。
高田城三重櫓入館料:一般310円、高校生160円、小・中学生(市外)160円
入館時間:9~17時(4月~11月)、10~16時(12月~3月)
休館日:月曜(月曜日が祝日のときは翌日)、祝日の翌日、12月29日~1月3日、1月・2月の月曜日~木曜日(祝日は開館)※注:観桜会・ゴールデンウィーク期間は無休、その他臨時休館あり
住所:新潟県上越市本城町6ー1(高田城址公園内)
電話:025-524-3120(上越市立歴史博物館) 

【松平忠輝】
まつだいら・ただてる。1592~1683年。天正20(1592)年、徳川家康の六男として江戸城で誕生。幼名は辰千代(たつちよ)。家康はなぜか忠輝を嫌い、面会したのは慶長3(1598)年になってからだった。下総佐倉5万石、信濃川中島12万石などで大名を務め慶長15(1610)年に越後高田に移封となり、川中島12万石とあわせ75万石の太守となる。その後も家康との距離は縮まらず、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で総大将となるも、遅参したとの理由で改易となり、天和3(1683)年に幽閉先の諏訪高島城で死去。92歳と異例の長寿だった。墓所は長野県諏訪市の浄土宗、貞松院(ていしょういん電話0266-52-1970にある。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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