浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎が雪の降る正月の朝に考えた「劇的な進化を遂げたスキー」と「人間の本質的堕落」の関係

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第130回は、「進化と退行について」。

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第130回は、「進化と退行について」。

激混みの夜行列車で出掛けたスキー旅行の思い出

私を書斎に置き去りにしたまま、平成10年は勝手に明けた。

「あけましておめでとうございます」という編集者たちからの電話に「バカヤロー!」と答えることもしばしば、どうやら世間ではこの数日を「お正月」と呼んでいるらしい。

作家の味方だと信じていた彼らも、実は世間様の一員であったのだと知れば、ひしひしと孤独感は深まる。ぜひとも彼らがみんな持っている「文藝手帳」には、業者固有の「文藝暦」を採用していただきたいと思う。太陽暦でいうところの「大晦日」は1月9日とし、「元旦」を10日と定めれば、作家はみなめでたい正月を迎えることができる。

ものすごい名案だと思ったので、とりあえず「文藝手帳」の版元である文藝春秋社にそのむねファックスしたところ、返事のかわりに送られてきたものは、あろうことか50枚分のゲラであった。

私事はさておく。

昨日がいったい何日なのかは知らぬが、朝っぱらから犬は喜び庭かけ回っており、猫はコタツで丸くなっていた。妙に静かな夜更けである。この静けさは尋常ではない。よもや死んだフリをしていたロシアが、意表をついてミサイルをブッ放したのはあるまいな。あるいは死なばもろともとばかりに、金正日(キムジョンイル)がついにボタンを押しちまったのではなかろうか。

しかし、おそるおそる雨戸を開けた私の目に映ったものは、決して地球最後の日ではなく、ふるさとの山野を純白に埋めつくした一面の雪景色であった。

私は思わず感極まって、

「おっかあ、雪だ。雪が降ってきた。よかったなあ」

と、『楢山節考』のセリフみたいな声を上げた。たしかに、おふくろを山に捨てるにはころあいの大雪だった。

返事がないので、まさか自主的に山に行っちまったんじゃあるめえなとふあんになり、家捜しをしたが、どこにもおふくろの姿はなかった。おふくろはおせちの食いすぎで血糖値が上がり、おとついから入院していたのであった。

再び、私事はさておく。

雪が好きだ。早くから読書の習慣とともにスキーを覚えた私にとって、雪はことさらロマンチックなのである。雪が降り始めると、私の心はたちまち物語に胸をときめかせた少年時代に帰る。瘡(かさ)のように体を被っている愛情も嫉妬も打算も利欲も、きれいさっぱり拭われて、まっしろな少年に戻ってしまう。

始めてのスキーは、上野駅から上越線の「準急」に載って、石打に行った。今では新幹線で1時間ほどのそこも、当時は深夜11時すぎの夜行列車で旅立つ、はるかな場所であった。むろん日帰りなどはできない。週末を利用してスキーを楽しむには、夜行列車で真夜中の3時か4時ごろ現地に到着し、民宿で仮眠をとって夕方に帰京する方法がふつうであった。「夜行日帰り」という言葉も、今や死語であろう。

それにしても、夜行列車は立錐(りっすい)の余地もないほど混雑していた。トイレもデッキもぎっしりと若者たちで埋まっており、へたをすると網棚で寝ている豪傑もいた。

読者の中にも、機関車の油煙や木の床のワックスの匂いとともに、そのころのスキー行の情景を懐かしく思い起こす方は多いと思う。

貧しい若者たちを満載した列車が上越の国境にさしかかる。水上(みずかみ)や湯檜曽(ゆびそ)の温泉場は雪の中である。信号所に列車が止まって、カンテラを提げた駅員が長靴を軋ませながら窓の外を歩く、などという小説そのものの光景も、たしかにこの目で見た。

谷川岳の登山口にあたる土合(どあい)の駅では、リュックサックにアイゼンやザイルを結びつけた山男たちが下りた。同年代のミーハーなスキー客をピッケルで押しのけ、列車から降りる彼らの表情は、誇らし気であった。

やがて清水トンネルを抜けると、決まって車中で歓声が上がった。国境を越えた越後の雪は、上州の山間(やまあい)のそれとは比べようもないほど厚かった。

劇的進化をとげたスキーが証明していることとは

スキー用具の進化も、交通の発達と同様にめざましく、当時とは隔世の感がある。

私がスキーを始めた昭和30年代後半には、スキー板はみな木製で、ぶ厚く重たかった。ヒッコリーという多少は軽くて丈夫な輸入木材が高級品とされ、グラスファイバー素材はほとんど試用品ともいえるほどの高嶺の花であった。初めてヤマハのグラウファイバーをはいたときには、あまりの軽さに愕(おどろ)いたものである。

セーフティ・ビンディングはようやく普及し始めたころで、貸しスキーなどはまだ転倒してもはずれない固定式の締具を使っていた。

何よりも最も変わったのはスキー靴だろう。バックル式が登場したのは40年代なかばのことで、それ以前はすべて編上げの牛革靴であった。ともすると東京からスキー靴をはいて出かける人もいた。何しろ革製であるから。長くはいていれば縫い目から水かしみこみ、つま先の感覚がなくなってしまった。

ヒッコリーの板に竹製のストック、皮の編上げ靴をカンダハーの固定器具でくくりつけ、ナイロン・ヤッケを頭から被ってスキーをした世代は、おそらく私が最後ではなかろうか。

スキーという遊びはそれからわずか10年足らずのうちに、敵的とも象徴的ともいえる進化をとげた。

しかし、私のように前世代のスキーを知っている人間が、そののちゲレンデで取り残されるのかというと、ふしぎとそうはならない。オールド・スキーヤーもたちまち時代に順応して行くのである。しかもスキーの技術とは体で覚えるものであるから、多少の体力の衰えはみてもたいしてヘタにはならない。

かくて私は40半ばの今も、四輪駆動車を駆って高速道路をつっ走り、若者たちと同じ身なりでゲレンデを滑りおりることができる。さまざまの道具や交通手段やスキー場の設備が発達して、年齢をカバーしてくれるのだから、これほど都合のよいスポーツはほかにあるまい。

夜が明けた。多摩山中の私の家の周辺では、20センチも積もったであろうか。近年にない大雪である。

ここまで原稿を書いて、内容に重大な問題がひそんでいることに気付いた。

若者たちは木製の板も皮の編上げ靴も知らないが、私たちもそんなものはとっくに忘れているのである。社会は年齢や経験にかかわらず、等しく文明の進歩につれて横着になり、怠惰になり、無能になって行くのであるまいか。まさに同時代人として等しく、である。

さきに私は、「スキーの技術とは体で覚えるものであるから、多少の体力の衰えはみてもヘタにはならない」と書いた。はたしてそうであろうか。「さまざまの道具や交通手段やスキー場の設備が発達して、年齢をカバーしてくれる」という考えは、はたして正当であろうか。

昭和40年代の高度成長とともに劇的な進化をとげたスキーは、文明と人間とのかかわりあい、すなわち利器の出現による人間の本質的堕落を、まこと分かりやすく証明しているのではなかろうか、という気がする。

それとも、外的進化と同時に内的退行をするのは、知的生物の宿命というべきなのだろうか。かくて人間は、私がかつて本稿で書いた通りに、実年齢の8割、7割、6割と、精神年齢を次第に下げて行く。

同時代を生きるかぎり、われわれは「今どきの若い者」という愚かしい説教は捨てねばならないのであろう。ともに同じ文明を享受し、同じゲレンデを滑るスキーヤーとして。

スキーに行きたしと思えども、どういうわけか私の上にだけ正月はやってこない。

待てよ。フムフム。

「文藝手帳」の予定表によれば、この原稿を最後に私の平成9年は終わる。

ということは、残すところあと1行。

ハイみなさま、あけましておめでとうございます。本年もよろしく!

(初出/週刊現代1998年1月24日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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