プロ野球はシーズンオフを迎え契約更改交渉の真っ最中。近年、高騰著しい球界の年俸事情と、日本選手初の1億円プレーヤーとして、年俸上昇の道を開いた、落合博満、東尾修の「銭闘」を振り返る。
画像ギャラリープロ野球はシーズンオフを迎え契約更改交渉の真っ最中。近年、高騰著しい球界の年俸事情と、日本選手初の1億円プレーヤーとして、年俸上昇の道を開いた、落合博満、東尾修の「銭闘」を振り返る。
珍しくなった怒りの記者会見
プロ野球はシーズンが終了し、年末にかけて新たな年俸を決める契約更改交渉が本格化。交渉後には慣例として、記者会見が行われるが、大幅昇給を勝ち取り笑顔いっぱいの選手がいれば、予想以上のダウン提示に神妙な面持ちの選手もいて、悲喜こもごもの人間模様が展開される。
ただ近年は提示額に納得がいかず、怒りを露にする選手はあまり見かけなくなった。これには2000年オフに代理人制度が導入され、不備を指摘されているものの定着してきたことや、査定方法の細分化、明確化により選手の納得感が得られるようになったことなどがありそうだが、そもそもプロ野球界の年俸がアップしていることがあるだろう。
プロ野球初の1億円プレーヤー誕生は1987年
落合博満(中日)と東尾修(西武)がプロ野球界初の1億円プレーヤーとなったのは1987年のこと。プロ野球選手会の年俸調査によれば、この年の支配下選手の平均年俸は1106万円だった。
それから30余年、2024年は4713万円と4.26倍にアップし、2人しかいなかった1億円プレーヤーは93人を数えた。厚生労働省賃金構造統計基本調査によれば、男性一般労働者の平均年収は1987年が257万7000円、2023年が350万9000円と1.36倍増にとどまっていることを考えれば、その伸び率はすさまじい。
田中将大の9億円が歴代最高
この間、FA制度の導入や、スター選手のメジャー・リーグへの流出などがあり、各球団とも選手を引き留め、戦力を保持するために年俸を引き上げずにいられなくなったのだ。
2024年の最高年俸は村上宗隆(ヤクルト)と坂本勇人(巨人)の6億円、2021年にはメジャーから復帰した田中将大が楽天と9億円で契約を結び、これがNPBの日本選手歴代最高年俸となっている。
「プロの価値はカネ」といって憚らなかった落合
選手年俸が低めに抑えられていた80年代後半から90年代にかけて、ベースアップの旗振り役となり、1億、2億、3億と次々に大台の壁を突き破ったのが落合だ。「プロの価値はカネ」といって憚らなかった落合は、一発更改が美徳とされた、当時の契約更改について次のような「落合節」を残している。
「ボクにとって、契約更改は年1回の個人経営者同士の戦いの場なんだ。自分達が持っているいい面を喋り、高く買ってもらいたいと思って何故、悪いんだろうか」(Number264号 1991年3月20日)
1990年オフに日本選手で初となる年俸調停を申請したのも落合だ。年俸調停とは正式名称を「参加報酬調停」といい、交渉が合意に至らなかった場合、選手と球団が希望額を提示した上で、調停委員会に判断を委ねる、野球協約に定められた制度だ。
この年の落合は打率.290、34本塁打、102打点で本塁打、打点の二冠となり、推定1億6500万円から、推定2億7000万円への大幅増を要求。球団提示額は推定2億2000万円で5000万円の開きがあった。
結局、調停の結果、球団提示と同じ2億2000万円で決着したが、「夢のある待遇」を求めていた落合はプロ野球選手の地位向上に先鞭がつけられたと納得。翌1991年シーズンに打率.340、37本塁打、91打点で2年連続本塁打王を獲得する好成績を残し、自らの「価値」を証明した。オフの契約更改で日本選手初の3億円プレーヤーとなり「夢のある待遇」を自らのバットで実現したのだった。
自腹を切って1億円、大台にこだわった東尾
プロ野球界では、記録や成績などとともに、年俸が選手としてのステータスになる。落合とともに日本選手初の1億円プレーヤーとなった東尾も大台にこだわった。
1986年オフ、この年プロ18年目、35歳と現役晩年にさしかかっていた東尾は、チームの優勝、日本一に貢献したものの12勝11敗2S 、防御率4.22とエースとしては物足りない成績に終わっていた。球団との事前交渉で提示されたのは、推定9100万円から400万円増の推定9500万円。契約更改の席上、東尾は手練れの交渉術で粘った。
「『500万円を自分で払うから1億円にしてくれ』と懇願した。坂井(西武球団)代表はいったん外に出て、オーナーか誰かと話したのだと思う。私の意気を感じてくれたのか、1億円を提示してくれた。『億』なんて数字は見たことがない。机の下で『0』が8個あることを指折り数えて確認したことを思い出す。それが投手初の1億円突破の舞台裏だよ」(週刊朝日 2014年12月12日号)
東尾は翌1987年、15勝9敗、防御率2.59の成績を残し、チームを連覇に導き、シーズンMVPにも輝いた。球団の高い評価に奮起したのだ。
「もはや1億円は『大台』と言えないほど、年俸は高騰している。それだけ、選手には責任と自覚、そして球団から多くのお金をもらえているという、感謝の思いを少なからず持つべきだろう。条件や権利ばかり主張し、金額がひとり歩きして、そこに伴うはずの選手の責任感が希薄になってはいけない。その点はすごく気になるよな」(週刊朝日2016年1月1-8日号)
年棒公開、昭和の時代の特殊な慣例
近年は契約更改後に年俸が報道されることについて、選手の間で賛否が分かれ、金額を非公開とする選手も増えてきている。また今オフより代理人を弁護士に限定してきたルールが撤廃され、今後、代理人交渉が活発になれば、契約更改の形式に変化が出てくるかもしれない。
ただ、年俸が高騰すればするほど、ファンの関心が高まるのも事実。選手が自身の給料を公開するというのは、昭和の昔、プロ野球が国民的娯楽であり、社会的関心事でもあった頃の名残というべき特殊な慣例だが、これからもオフの風物詩として、続いていくことになりそうだ。
石川哲也(いしかわ・てつや)
1977年、神奈川県横須賀市出身。野球を中心にスポーツの歴史や記録に関する取材、執筆をライフワークとする「文化系」スポーツライター。
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