昭和の時代に大ブームを起こした北海道の「愛国駅→幸福駅」切符は、いまでも鉄道ファンの語り草になっている。両駅とも現在は、路線が廃止されている。大学の卒論に「愛国駅→幸福駅」を取りあげた「かつての鉄道小僧」・山口博氏は、恩人である愛国駅と幸福駅の駅長を探し回った。山口氏が、駅長と再会したドラマを思い出の写真とともにつづる。
画像ギャラリー昭和の時代に大ブームを起こした北海道の「愛国駅→幸福駅」切符は、いまでも鉄道ファンの語り草になっている。路線が廃止されたため、両駅とも現在はない。大学の卒論に「愛国駅→幸福駅」を取りあげた「かつての鉄道小僧」山口博氏は、恩人である愛国駅と幸福駅の駅長を探し回った。山口氏が、駅長と再会したドラマを思い出の写真とともにつづる。(この記事は3回にわたる連載の第2回)
初めて訪れた時から半世紀、久々の来訪
私は早稲田大学の卒業論文に、1970年代「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズで大ブームとなった現象を取り上げました。7枚しか売れていなかった切符がNHKの番組(昭和48年放送)をきっかけに2年後には740万枚売れた衝撃と、その駅長さんに親切にされたご恩が頭を離れなかったことが動機になりました。
この事を駅長さんにお伝えすると、奥様とご一緒に愛国駅(帯広市愛国町)と幸福駅(帯広市幸福町)に関する新聞の記事を集めて、たくさん、送ってくださいました。地元の記事は、東京の記事と視点が違い、状況がとても詳しく記載されていて本当に助かりました。
大学卒業後、私が就職したのと、昭和50年で蒸気機関車の運行は無くなっていたのが重なり、北海道へ行く事はなくなってしまいました。まさか、そのまま半世紀にもなってしまうとは夢にも思いませんでした。
現在はカイロプラクティックの仕事を始めてから37年間位ですが、月曜日から土曜日まで夢中で働くという事をしていましたので連休は取れません。今でいえば、「セルフ・ブラック」でした。しばらくして、ある時、年賀はがきが戻ってきました。
駅長さんは、根室本線の十勝清水駅駅長を最後にご退官され、その後、鉄道官舎を離れていらしたのですが、さらに移動されて時間が経ってしまったようです。移転ハガキが届いていたかもしれませんが、残念ながら見当たりませんでした。その時以来、音信が途絶えたままです。
カイロプラクティックの仕事を始めて37年目、これからの人生を考える中で、蒸気機関車の事、大好きな北海道の事を考える事が増え、釧網本線(せんもうほんせん)の北浜駅を初めて訪れてから50年ほど経った令和4年、北海道に行きました。その後、令和5年、令和6年と、私は3年続けて北海道へ行きました。
北浜駅の駅長さんとの再会を願う
最初の令和4年の時は、函館、旭川、稚内、遠軽、釧路、小樽、函館、東京と、北海道を鉄道で一周する旅で帯広には下車しませんでした。この時、特急の窓から帯広の町並みを見ていて、駅長さんにお会いしたいという気持ちが沸き上がりました。
さんざんお世話になっていながら、直接お会いして、心からお礼を申し上げていないなんて、人としてこのままで良いのかとの思いにも駆られました。
私は車内で、来年の令和5年に帯広で降りようと決めました。出来れば、駅長さんにお会いしたかったからです。
しかし、音信不通になって半世紀、駅長さんの手掛かりは全くありません。どこにいらっしゃるのか、ご存命かどうかもわかりません。いろいろなサイトで、「元国鉄 職員」「北海道 国鉄 駅長」など色々調べたのですが、知りたい情報にたどり着く事はできません。探偵に頼むと、もの凄いお金が掛かります。
時間があると情報を得ようとパソコンで検索しましたが、知りたい内容があるサイトにはまったく辿り着けず、どうしたものかと困っていると、愛国交通記念館にある歴代駅長の写真をアップしている方がいました。
よく見ると、その写真の中に、なんと、駅長さんの名前があるのです!
駅長さんの現在は……?
藁にもすがる思いで、思い切って、愛国交通記念館を管理している帯広市役所に、駅長さんと私が出会った昭和45年からのストーリーを書いて投函しました。文面の最後に、個人情報の厳しい時代なので、私の方から探せる所があれば教えてくださいとお願いしました。
1カ月程経った頃、施術を終えてデスクに戻ると、私の携帯に名前の登録をしていない電話番号の履歴がありました。番号の横には「帯広」の文字が表示されています!
もしかすると?と、ドキドキする気持ちを押さえながら電話をしました。お電話に出られた方は、明るい声の帯広市役所の方でした。その時、教えていただけた事は、
・駅長さんは98才で、ご健在!(本当に嬉しかった)
・奥様は、残念ながら10年位前に亡くなられている。
・駅長さんの息子さんに私の電話番号を伝えたので、息子さんから連絡があれば進める。
・私に連絡があっても無くても、役所はここまで。
電話が掛かってくるかわからないのに、私の心はもう「ヤッター!」と叫んでいました。
からだ全体が熱を帯びた様になりました。この時の感覚は、今でも、はっきりと覚えています。
市役所の方にお礼を申し上げて電話が終わってから、ほどなくすると、駅長さんの息子さんから電話が入りました。開口一番、「覚えていますよ!いや~久しぶりですね!」と、高校生の頃にあって以来、半世紀ぶりなのに、ずっとお会いしているような温かな声を聴くと、正直涙が出そうになりました。
私が「駅長さんに、お会いする事が出来ますか。お礼と半世紀ご無沙汰していた事のお詫びを申し上げたいのです」とお伝えすると、「大丈夫ですよ!北海道へ来る日が決まったら連絡ください」と嬉しいお言葉をいただきました。
あ~良かった!本当に安心しました。その夜は一人で祝い酒をしました。
再開の前に食べたカツカレーは美味!
令和5年、私は東京から北海道へJRで向いました。
現在、駅長さんは帯広に住んではおられませんでしたが、お会いする前日、思い出の帯広に行き、帯広のソウルフードといわれているカレーの専門店「インデアン」でカツカレーを食べました。
辛さは3カラ。ルーが本当に美味しい!卓上に福神漬けなどの他に、私が大好きなガリ(酢しょうが)があったのには驚きました。カレーにピッタリ合います!
駅長さんの息子さんは待ち合わせの駅まで迎えに来てくださいました。
そして、ついに駅長さんと、約半世紀ぶりに念願の再開を果たす事ができました。私にとって感動の瞬間です。98歳の駅長さんは、椅子に腰掛けておられました。ドキドキしている私に、優しい笑顔で迎えてくださいました。
私が持参した写真や切符、当時話題となったキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」のスタンプなどをお見せすると、これは懐かしいねと嬉しそうに仰いました。
お元気でよかった!この時の気持ちは言葉では表現できません。私は、一生、この再会の日を忘れません。
私は、この時のお礼にと、帯広市役所のご担当の方へ、愛国交通記念館に展示されている蒸気機関車が広尾線を走っている当時の写真をお送りしました。嬉しい事に、その写真の中から3枚を、愛国交通記念館の新看板に使用してくださいました。 その3枚の写真は、第3回目の記事で公開します。
文・写真/山口博(青山一丁目カイロプラクティック院院長)
昭和31年生まれ。早稲田大学卒業後、社会人を経て昭和62年からカイロプラクティックを始める。学生時代から鉄道が趣味で、今も鉄道の旅を続ける。メディア出演多数。放送大学「負けない体を作る姿勢学」講師 、(一社)日本姿勢教育協会理事、元早稲田大学オープンカレッジ講師。「青山一丁目カイロプラクティック院」(https://aoyama1.jp)は完全予約制(info@aoyama1.jp)