浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎の「勇気凛凛ルリの色」セレクト(4)「ハゲについて」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第4回は、不惑を過ぎ、一気に額が後退してしまった浅田さんが、おのれの「ハゲ」について考察する、哀しみと可笑しみに満ちた回をお届けします。

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「ハゲについて」

「きたな」と喜んだ父と兄

頭がハゲた。

小説家たる者がいきなりカナ文字を使用することを許して欲しい。実は第一稿目には「頭が禿げた」と書いたのだが、そのとたん「禿」という感じの生々しさにおののき、熟慮の末、カタカナに変えた。

ともかく、頭がハゲた。

ハゲに前方後退型と後方拡散型のあることは周知の事実である。私の場合は典型的な前者であり、20代の半ばごろ少し額が広くなって顔色が明るくなったな、と思う間にほどなくすべてが額となってしまった。

43歳の現在では下部にぐるりと黒髪の残る状態、具体例を挙げるならサザエさんの父親もしくは大宮デン助の状態、雅(みやび)な表現をするなら「すそごろも」とでも形容すべき状態である。

生来は世人に倍する豊かな剛毛であった。

父がハゲ、兄がハゲても、巷間(こうかん)噂されるところの遺伝学説をくつがえすかのように、私にだけはその兆候が現れなかった。ぐんぐんハゲて行く父や兄を尻目に、おそらく私だけがさる格式高い神社の宮司を代々世襲している母方の血を享(う)けたのであろう、と考えていた。父方の男子はことごとくハゲであったが、母方の神主の家系はみな烏帽子(えぼし)のよく似合う、獅子の如き総髪であった。

こめかみの上部がわずかに後退したとき、父も兄も「きたな」と唇を歪めて嗤(わら)った。本人ですら気付かぬ異変を、彼らは決して見逃さなかった。まるで末子の元服を祝うかのように彼らは喜んだ。

しかし、商家の打算的性格を蔑み、母方の文化的血脈を内心誇りに思っていた私にとって、それは存在の本質にかかわる大事件であった。やっぱり文才よりも商才の方があるのだろうかと、行き詰まった原稿用紙を前に懊悩した。

やがてハゲは、不治の病魔のごとく私の豊かな総髪を侵食して行った。

それは、新婚まもない家人にとっても大いなる衝撃であった。彼女は私の属性としてのダイナミックなリーゼントカットを、ことさら愛していたのである。

若き日の私の剛毛は、なまなかな液体整髪料なんててんでうけつけず、古色蒼然たる柳家ポマードと丹頂チックがなければ全くまとまりがつかなかった。

しかし、リーゼントカットの前髪が消滅すれば、いずれただのオールバックになるであろうことは容易に想像がついた。その期に及んでも私が柳屋ポマードと丹頂チックに固執するならば、それは全く古色蒼然としたオヤジのセンスに他ならなかった。

結婚後わずか数ヵ月にして愛情のありかを見失った彼女は、不幸な新妻であった。

一瞬の好機に冠りそこなえば……

頭がハゲた。

しかし依然として、側頭部と後頭部は剛毛に被われている。理不尽である。この不平等は憲法の精神に悖(もと)る。

江戸時代に生まれていれば、まだ何の苦労もなかった。サカヤキを剃る手間が省けて、むしろ都合が良かったはずだ。

ふと考えるに、もしかしたらチョンマゲとは、いずれはハゲる大多数の男たちのために用意された社会慣習ではなかったか。

はじめから全員がサカヤキを剃っていれば、現役の男たちはおおよそ年齢不詳となる。すると合戦に際しては雑兵どもに狙われる危険も少いし、むしろ戦なれした年長者には正当な威風がそなわる。しかも平時においては若い女に嫌われることもなく、歴戦のつわものぶりはここでも正当に評価され、子孫は栄える。年を経てサカヤキがさらに後退し、チョンマゲも結えなくなるころには、どうせ自慢の槍も役にはたたんのだから、一気に頭を丸めて出家遁世すればよい、これで男の人生は公平に完結する。

かくて長幼の序を重んじた封建社会は、チョンマゲを必要としたのだ。この説はかなり説得力があると思うのだが。

いずれにしろ頭のハゲた今となっては、薩長を呪うしかない。

頭がハゲた。

途中、アデランスという手ももちろん考えなかったわけではない。しかし一瞬の好機をつかみそこなえば、いや、一瞬の好機に冠りそこなえば、二度とチャンスが訪れないことは自明である。

20年ぶりの同窓会に出席するというのなら、いっこうにかまわない。しかしある朝、新調したアデランスを冠って出社したときのオフィスの驚愕を想像してみたまえ。

当人が日頃謹厳な人物であればあるほど、またオフィスにおける立場が高ければ高いほど、部下たちに苦痛を強いることになりはしないか。

そこで、謹厳な上司であり、部下思いであった私は、当時アデランスの目玉商品であった「三段階増毛法」についても、真剣に検討した。

しかしよく考えてみれば、この方法は一年中特定の少数の人々と顔を合わせている職域の者にのみ有効なのである。

つまり、オフィスの部下たちの目はごまかせても、たまにしか会わぬ取引先を驚愕させることになる。

出張の際はことさら不都合である。ただでさえ変事のない地方営業所に、いきなり三段階目のそれを冠って出向けば、たちまち阿鼻叫喚の地獄となるであろう。同期の不遇な営業所長をさしおいて、自分だけ勝手に頭をスゲ替えたとあっては洒落(しゃれ)にもならぬ。

ハゲの悲劇性、不条理性とは?

頭がハゲた。

ことここに至っては格好良くハゲるしか方法はあるまい。ハゲはデブとは違う。ともに中年男性の醜態とされてはいるものの、ハゲは決して自己管理を怠った結果ではない。むしろ誇り高き一族の徴(しる)し、もしくは髪の毛の抜ける思いで日々精進を怠らなかった、その結果である。

ハゲの友人が、娘のピアスをなじったところ、「おとうさんだってカツラじゃないの。いったいどこがちがうっていうの」と言い返されて絶句したそうだ。

つまり娘の言わんとするところは、カツラもピアスも虚飾であり欺瞞であるのだから、そういう説教は目クソ鼻クソだというわけである。

この抗弁は正しい。絶望的なぐらい正しい。しかし、そのときやおらカツラをかなぐり捨てて、「よしわかった。今日からおとうさんもハゲを恥じずに堂々と生きるから、おまえもブスを恥じずに堂々と生きなさい」と、言える父親が果たしているであろうか。

自己管理を怠った結果であるデブは、ダイエットを心がければ容易になおる。しかし日々の精進の結果であるハゲは、どれほど強い意思を持とうが永久にハゲなのである。ハゲの悲劇性、ハゲの不条理性はこれにつきる。

蓼食う虫も好きずきとは言うが、私はかつて、私のハゲを魅力的だと言った女にであったことがない。ごくたまに、若い男よりゼッタイ中年がいいという娘はいるが、対象となりうるのは生えぎわにメッシュ状の白髪をたなびかせているようなオヤジで、ハゲは論外である。

ハゲがなぜ悪い。

だいたいハゲが醜いものだなどと決めつけるのは、一種の偏見である。偏向せる美意識が、娘たちをしてそう罵らせるのである。

この偏見の根拠は甚(はなは)だ明確で、ただ彼女らの初恋の人が誰一人としてハゲてはいなかったからに他ならない。

そんなことは当たり前だ。彼女らの愚かしさは、その初恋の人もいずれはハゲるのだということを、ちっとも想像しないところにある。

さあ、そうと決まれば潔くハゲよう。

かのショーン・コネリーは007のころよりも、ハゲた今のほうがずっと格好いいではないか。

(初出/週刊現代1995年2月11号)

さて、ここでクイズです。

流れ星を見たら、消える前に願い事を唱えると叶うという伝説がありますが、流れ星は一瞬で消えてしまうので、願い事を言うのが間に合わないことが多いですよね。

ところが、浅田さんは、必ず間に合うそうです。

さて、この「必ず間に合う願い事」とはなんでしょう?

ヒントは、漢字でもひらがなでもカタカナでも1文字。

正解はそう、「毛/け/ケ」です。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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