「ハゲについて」
「きたな」と喜んだ父と兄
頭がハゲた。
小説家たる者がいきなりカナ文字を使用することを許して欲しい。実は第一稿目には「頭が禿げた」と書いたのだが、そのとたん「禿」という感じの生々しさにおののき、熟慮の末、カタカナに変えた。
ともかく、頭がハゲた。
ハゲに前方後退型と後方拡散型のあることは周知の事実である。私の場合は典型的な前者であり、20代の半ばごろ少し額が広くなって顔色が明るくなったな、と思う間にほどなくすべてが額となってしまった。
43歳の現在では下部にぐるりと黒髪の残る状態、具体例を挙げるならサザエさんの父親もしくは大宮デン助の状態、雅(みやび)な表現をするなら「すそごろも」とでも形容すべき状態である。
生来は世人に倍する豊かな剛毛であった。
父がハゲ、兄がハゲても、巷間(こうかん)噂されるところの遺伝学説をくつがえすかのように、私にだけはその兆候が現れなかった。ぐんぐんハゲて行く父や兄を尻目に、おそらく私だけがさる格式高い神社の宮司を代々世襲している母方の血を享(う)けたのであろう、と考えていた。父方の男子はことごとくハゲであったが、母方の神主の家系はみな烏帽子(えぼし)のよく似合う、獅子の如き総髪であった。
こめかみの上部がわずかに後退したとき、父も兄も「きたな」と唇を歪めて嗤(わら)った。本人ですら気付かぬ異変を、彼らは決して見逃さなかった。まるで末子の元服を祝うかのように彼らは喜んだ。
しかし、商家の打算的性格を蔑み、母方の文化的血脈を内心誇りに思っていた私にとって、それは存在の本質にかかわる大事件であった。やっぱり文才よりも商才の方があるのだろうかと、行き詰まった原稿用紙を前に懊悩した。
やがてハゲは、不治の病魔のごとく私の豊かな総髪を侵食して行った。
それは、新婚まもない家人にとっても大いなる衝撃であった。彼女は私の属性としてのダイナミックなリーゼントカットを、ことさら愛していたのである。
若き日の私の剛毛は、なまなかな液体整髪料なんててんでうけつけず、古色蒼然たる柳家ポマードと丹頂チックがなければ全くまとまりがつかなかった。
しかし、リーゼントカットの前髪が消滅すれば、いずれただのオールバックになるであろうことは容易に想像がついた。その期に及んでも私が柳屋ポマードと丹頂チックに固執するならば、それは全く古色蒼然としたオヤジのセンスに他ならなかった。
結婚後わずか数ヵ月にして愛情のありかを見失った彼女は、不幸な新妻であった。
一瞬の好機に冠りそこなえば……
頭がハゲた。
しかし依然として、側頭部と後頭部は剛毛に被われている。理不尽である。この不平等は憲法の精神に悖(もと)る。
江戸時代に生まれていれば、まだ何の苦労もなかった。サカヤキを剃る手間が省けて、むしろ都合が良かったはずだ。
ふと考えるに、もしかしたらチョンマゲとは、いずれはハゲる大多数の男たちのために用意された社会慣習ではなかったか。
はじめから全員がサカヤキを剃っていれば、現役の男たちはおおよそ年齢不詳となる。すると合戦に際しては雑兵どもに狙われる危険も少いし、むしろ戦なれした年長者には正当な威風がそなわる。しかも平時においては若い女に嫌われることもなく、歴戦のつわものぶりはここでも正当に評価され、子孫は栄える。年を経てサカヤキがさらに後退し、チョンマゲも結えなくなるころには、どうせ自慢の槍も役にはたたんのだから、一気に頭を丸めて出家遁世すればよい、これで男の人生は公平に完結する。
かくて長幼の序を重んじた封建社会は、チョンマゲを必要としたのだ。この説はかなり説得力があると思うのだが。
いずれにしろ頭のハゲた今となっては、薩長を呪うしかない。
頭がハゲた。
途中、アデランスという手ももちろん考えなかったわけではない。しかし一瞬の好機をつかみそこなえば、いや、一瞬の好機に冠りそこなえば、二度とチャンスが訪れないことは自明である。
20年ぶりの同窓会に出席するというのなら、いっこうにかまわない。しかしある朝、新調したアデランスを冠って出社したときのオフィスの驚愕を想像してみたまえ。
当人が日頃謹厳な人物であればあるほど、またオフィスにおける立場が高ければ高いほど、部下たちに苦痛を強いることになりはしないか。
そこで、謹厳な上司であり、部下思いであった私は、当時アデランスの目玉商品であった「三段階増毛法」についても、真剣に検討した。
しかしよく考えてみれば、この方法は一年中特定の少数の人々と顔を合わせている職域の者にのみ有効なのである。
つまり、オフィスの部下たちの目はごまかせても、たまにしか会わぬ取引先を驚愕させることになる。
出張の際はことさら不都合である。ただでさえ変事のない地方営業所に、いきなり三段階目のそれを冠って出向けば、たちまち阿鼻叫喚の地獄となるであろう。同期の不遇な営業所長をさしおいて、自分だけ勝手に頭をスゲ替えたとあっては洒落(しゃれ)にもならぬ。